ぷかぷか日記

養護学校時代

  • 先々安心の話
     進路懇談会があった。今、高等部2年生は卒業後の進路先をある程度決めて実習先を決める。その話の中で「ここに入れれば、いろいろ面倒を見てくれるから、先々安心」といった言葉が頻繁に出た。仕事をするだけでなく、生活面の面倒も見てくれるという意味だ。 
 「カフェベーカリーぷかぷか」は今、パン屋を維持するには、一日にパンがどれくらい売れればいいのか、コーヒーは何杯、ランチは何食売れればいいのか、そのためにはどれくらいがんばって働かねばならないのか、お客さんをどうやって増やせばいいのか、といったことばかり考えていて、ハンディのある人たちの生活面のフォローまではほとんど考えていなかった。食事とトイレが一人でできれば、あとはまぁなんとかなるだろう、というきわめて楽観的な予測しかない。  もちろんいろいろな問題は出てくるだろう。その時はみんなでどうすればいいか考えるしかない。みんなで考えたり、悩んだりすることで、少しずつ「ぷかぷか」はできていくんだろうと思う。だから「ここに入れれば、先々安心」とはほど遠い。安心どころか、しょっちゅう問題が起こって、その度にみんなで悩んだり、話しあったりで、大変なことばかり。  でも、大変な分、「ぷかぷか」を自分たちで作っていく、という素晴らしい楽しみがある。新しい「場」を作っていく、わくわくドキドキするような楽しみだ。うまくいくかどうかだってほんとうはわからない。わからないからこそ、トライする価値があるし、おもしろい。そこに賭けてみようという気持ちも出てくる。そのおもしろさがわかる人が今少しずつ集まってきている。そんな仲間が少しずつ増えてくれれば、と思う。  
  • 生徒たちの「生きる」を引き出す
     昨年の11月末にやった授業の話。すごくおもしろかったのでここに載せます。養護学校の生徒たちの思いがよく見えます。   1年ほど前、県教委の主催するアーティスト派遣事業に応募した。国数の時間、本を読んだり、詩を読んだりした後、感想を聞いても「面白かった」「楽しかった」というワンパターンの言葉しか出てこなくて、本当はもっといろんな思いが体の中を渦巻いているはずなのだが、その思いをうまく表現できてない気がしていた。アーティストに来ていただいて、そのあたりの問題が解決できないだろうかと申請した。それが審査に通り、コーディネーターの現場視察と聞き取りがあり、その結果、あちこちでワークショップをやっている演出家を派遣していただいた。 
 《言葉を豊かにする》ということが、たとえアーティストを呼んだとしても、わずか2,3回の授業で実現できるはずもないのだが、少なくとも手がかりくらいはつかめるのではないかと思った。演出家の柏木さんと打ち合わせをし、その後何回かのメールのやり取りで、昨年何度も朗読した谷川俊太郎の『生きる』を手がかりに、自分たちの『生きる』を引っ張り出す。それぞれの『生きる』をつなげて、みんなの『生きる』が見える集団詩を作る、という案が決まった。基本的には「ドラトラ」(詩劇)と呼ばれるワークショップの方法だ。 
 1回目の授業で谷川俊太郎の『生きる』を朗読した。昨年かなり読み込んだこともあって、びっくりするくらい積極的に朗読し、その後、それぞれの『生きる』をA4の紙に書き出した。2回目に短冊状に切った紙にそれぞれの『生きる』をひとことずつ書き、大きな紙の上に貼り出した。いろんな『生きる』をグループ分けし、並べる順番も考えた。グループ分けや順番を何度も入れ替え、みんなで吟味し、集団詩ができ上がった。  3回目にその集団詩を朗読した。本当は簡単な芝居まで持っていきたかったのだが、途中で生徒同士のトラブルが発生、右往左往してるうちに結局時間がなくなり、朗読だけで終わってしまった。それでもそれぞれの『生きる』がはっきり見え、熱い言葉があふれたように思う。生徒たちを指導するのではなく、生徒たちと本気で格闘した柏木さんの姿勢が爽やかだった。それがこの素晴らしい詩を引き出したのだと思う。 
人生を生きる。家族がいること
家族を大切にするということたてななほがすきということ
彼と一緒にいると幸せということ
好きな人を見ること友達がいること
今誰かと喧嘩をしたということ
その人との楽しい日々があるということ
それは幸せということ
かみまてさんとあそぶということ
毎日が楽しいこと好きな映画を見ること
「ハリーポッターの話」
クッキング部でケーキを作ること
歌を歌うこと
カードゲームをすること
昔の新聞を出すことハンバーガーを食べること
ダイエットをすること
世界遺産の写真を集めること
今、私はアルプスに行って富士山を見てすべての美しいものに出会うこと
今、私は命があるから生きている。 
 驚いたのは、生徒たちの様子である。生徒たちはずっと素のままだった。普通、外からお客様が来て授業をするとなると、多少は身構えたり、気取ったりするものだと思うが、それがない。ある人は怒り、ある人は沈み、ある人はけんかし、ある人は「おなかがすいたー」と叫び、何人かは大声で笑い、ある人は好きな本やアニメのことを長々書き、ある人は授業から出て行き、途中から出席した人はちょっと的外れなことを言い、ある人は前向きで何でも手をあげ、ある人は真面目に取り組み真面目さゆえに他の人に対して腹を立てていた。  普通に考えると教員である私はそれを注意しまくるところだが、今回はあえてそれをしなかった。する必要がないと考えたからである。  この授業の題材は『生きる』。素のままの彼らは確実にその場を『生きていた』。そして最後にできた詩は、誰にもかけないような、おもしろくて、楽しくて、自分勝手で、そしてとてつもなく美しいものになった。この人がこんな美しいことばを持っていたのかと感動させられた。 
 この詩をまとめたアーティスト柏木氏は、こんな体験は初めてで、とてもたいへんであったことは間違いない。しかし全身で彼らのことばを受けとめ、悩み、苦しみ、感動しながら授業を作り上げてくださった。彼らが素のままでいられたことは、柏木氏のお人柄によるところが大きい。生徒たちの情操を高め、心を豊かにすることばを探す試みとしては大成功であったと思っている。
                  
  • ガジュマルの木とキジムナーができるまで
     学習発表会の舞台が終わりほっととしたところ。「ガジュマルの木とキジムナー」の芝居つくりはほんまに面白かった。二つの詩をまず作り、そこから芝居を起こしていった。    わしは ガジュマルの木 おじいさんの おじいさんの    そのまたおじいさんが まだわかかったころから    わしは ずっと ここに こうやって     えだをひろげてたっている       あめのひも かぜのひも もちろんはれのひも       ここにこうやって たっている そして    えだのかげには きじむなー  このガジュマルの木のイメージは、来年修学旅行で行く読谷村にある大きなガジュマルの木からヒントを得た。ガジュマルの木だけではお話が広がっていかない気がしたので、枝の陰にキジムナーを登場させた。そのキジムナーの詩      おれは きじむなー         ふるい おおきな がじゅまるのきが おれの すみか    あかるいうちは いちにちじゅう ひるね    よるになると ひゅわ~んと どこかへ とんでゆく    ひゅわ~ん ひゅわ~ん かぜにのって とんでゆく    さあ こんやは どこへいこうか なぁ ひゅわ~~ん  この二つの詩に曲をつけてもらった。ガジュマルの木は荘厳なイメージ、キジムナーは沖縄の音階を入れたはずむようなイメージ、という注文をだした。一ヵ月くらいして注文通りの曲が出来上がった。さっそくみんなで歌い、「キジムナーは、こんや、どこへ飛んで行くんだろう」という問題を各クラスで考えてもらった。7月にその発表会をやり、面白いものがあれば芝居に取り込むつもりでいたが、舞台に上げるにはちょっとという出来。  ここからが勝負だった。キジムナーがどこかへ飛んで行き、そこでの出来事と、沖縄の歴史がどこかで重なるようなお話…。沖縄の歴史で一番大事なのはもちろん戦争。それとガジュマルの木とキジムナーをどう結び付けるか。なかなか難しい問題だが、ここでいろいろ悩むのが芝居つくりの楽しいところ。たまたま以前舞台に上げた『トントンミーとキジムナー』というお話に出てくるキジムナーのやさしい心は戦争を解決する大事な部分。やさしい心は花を咲かせる。ガジュマルの木の精はずっと昔から歴史を見続けてきた存在。恐ろしい兵隊、楽しそうに暮らす親子、そういったプロットがいくつか並ぶと台本は一気に書きあがった。  大事なポイントに新しい歌を2曲入れた。大事なところはセリフよりも歌のほうがよく伝わる。何度も歌うことで、生徒たちにもその大事なところが入っていく。そして何よりも場が盛り上がる。 今回は歌に本当に助けられた。ガジュマルの木の歌もキジムナーの歌も、詩を作った時はなんということのない詩だったのだが、それが歌になり、何度も歌っているうちに言葉が詩を作った時のイメージをはるかに超えてむくむくと立ち上がり、生き始める気がした。歌の力をまざまざと感じた。すばらしい歌を作ってくれた西川先生に感謝! ★台本読んでみたい方はメールください。     
  • 詩を読んだ
     生徒たちと詩を読んだ。 
 平和教育というほどではないが、学習発表会で舞台に上げる芝居の中に、沖縄戦のさなか、大砲が村を向き、夜が明けたら弾が発射されるという場面がある。弾が発射されたらどうなるか、と聞くと、たいていの生徒は村人たちが死んでしまう、という。それは全く正しいのだが、この「死んでしまう」という情景を、どれくらい私たちは想像しているだろうか、というところがずっと気になっていた。 
 たとえば台本の中で、夜が明けたら弾が村に向かって飛んで行く事を知ったガジュマルの木の精たちが「まずいぞ」とか「ああ、困った」というのだが、生徒たちの口にする言葉はただ台本を追いかけてるだけで、思いが全く伝わってこない。村人たちが死ぬ事はわかっていても、そのことを具体的にイメージできないのだから、そこをいくら思いを込めて、とかいっても無理なのだ。 
 そこで詩を読むことにした。内容的にはとても辛い詩だ。目をそむけたくなるような詩だ。それでもきっちりとこの詩を読んで欲しいと思った。読むことで人が死ぬってどういうことなのか、具体的にイメージして欲しかった。 『仮繃帯所にて』 あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち 血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四股
をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐
だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなく
させられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう 焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める 何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだに
はさまって
おもっている
かって娘だった
にんげんのむすめだった日を
                         (峠三吉)  教員がまず朗読した。みんなびっくりするくらい集中して聞いていた。授業中に彼らがこんなに集中したのはおそらく初めてだったといっていいくらい深い集中だった。そのあまりに深い集中にちょっと圧倒されて、次の言葉がなかなか出てこなかった。こっちも必死になって、次はみんなに朗読してもらうことを伝えた。 
 言葉にていねいにふれて欲しかった。そのためには人の読むのを聞くだけではだめだと思う。自分で詩を声に出して読む、人前に立って読む、そうやってようやく言葉に少しふれることができるように思う。黙って目で追いかけるよりはるかに言葉にふれるということを実感できる。 
 まず半分の生徒が前に出て、一人1行ずつ読んだ。模造紙に書かれた詩に目を向けながらも、気持ちは朗読を聞いてる人に向けるように言った。その人に向けて言葉を読む、言葉に含まれた気持ちを伝える。 
 1回目はかなりぎくしゃくした読みだったが、2回目は言葉が書かれた情景が彼らの中に少しずつだがイメージできた読みだった。聞いてる生徒も2回目の方が断然よかったといっていた。読む方もイメージできた分、読みやすかったといっていた。 
 グループを交代して、やはり2回繰り返して読んだ。次に二人で今度は長いセンテンスで読んだ。たまたまだが女性二人で読んだこともあって、詩の中の    ああみんなさきほどまでは愛らしい
   女学生だったことを
   たれがほんとうと思えよう
   ……
   あなたでなくなったあなたたちが
   つぎつぎととび出し這い出し
   ……
   そしてあなたたちは
   すでに自分がどんなすがたで
   にんげんから遠いものにされはてて
   しまっているかを知らない
   …… 「あなた」という言葉がしみて、聞きながら涙が出そうになった。死んでいったのは多分同じ年ごろの女学生だった。そのこともあって彼らが読む時の「あなた」という言葉には力があった。自分と重なりあう「あなた」への思い。  読み終わったあと、「毎日ごはんが食べられて自分は幸せだと思います」と言っていたのが印象的だった。(ふだんはちょっと頼りない人だが、こんな言葉がぽろっと出てくるなんてすごいじゃないか、と見直してしまった。) 
 最後に一人で全部読んだ生徒がいた。この詩を人の前で全部読むのは相当なエネルギーがいる。それを手を上げ、自分で読みます、といったから本当に偉いと思う。この詩を読む辛さを全部一人で引き受けたのだ。しかも人前に立ち、声を出しながら…。僕なら途中で詰まってしまって、先へ進めなかったかもしれない。
言葉にならない感動があった。  この生徒はガジュマルの木の精の役で一番最初に「まずいぞ」というセリフをいう。そのひとことを、どんなふうに言ってくれるか楽しみだ。 
(この生徒は1学期、谷川俊太郎の「生きているということ」を読んだあと、宿泊で山に登った時、稜線の林の中を歩きながら、「あ、“木漏れ日がまぶしい”(詩の中の言葉)って、こういうことか」って言ったことがある。今度はどんなことを言ってくれるのかなぁ、と楽しみにしている。)
                           
  • 芝居の稽古が始まる
      10月12日にやる芝居の稽古が始まった。1年で一番楽しい時だ。朝からわくわくしてしまう。 「ガジュマルの木とキジムナー」の台本をみんなに配り、「ガジュマルの木の歌」と「おいらキジムナー」それに「やさしいこころ」の3曲を歌って雰囲気を盛り上げる。みんなのノリがいい。グループに分かれて稽古。おしゃべりできない人が三分の一くらいいるので、その人たちの出番を工夫する。  30分くらい経って、みんな集まって通しをやる。兵隊の歩き方がなんともおかしい。どちらかといえば重い話なので、このおかしさには救われる。せりふも彼らがしゃべると、ずっこけそうになったところが何ヶ所もあって、最高に楽しい。こういうセンスはまねできないなぁとつくづく思う。   彼らと一緒に芝居をやるしあわせをしみじみ感じる。
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