ぷかぷか日記

障がいのある人と生きるということ

  • つながるいのち
     今朝の朝日新聞にやまゆり園事件についての柳田邦夫さんの話が載っていました。裁判官は、遺族の「いのちのみなぎる言葉」に向き合ってなかった、という指摘を柳田さんはしているのですが、その記事の中で『つながるいのち』という言葉がとてもいいと思いました。                          《 犠牲者一人一人には、家族や近親者、親友、ケアスタッフら、大切に思い、支えてくれる人がいた。その関係性は、支える人にとっても生きがいや愛情、人生の証となり、自らの生の一部になっていた。「人はつながることで生きる意味を見いだせる。『つながるいのち』という視点が重要だ」》 《 この事件は、犠牲者のいのちだけでなく、人生を共有していた親子や兄弟の『つながるいのち』を断ち、残された人の未来まで抹殺したという重大さがあるのだという。》  「人はつながることで生きる意味を見いだせる。」すごくいい言葉ですね。   ぷかぷかは「障がいのある人たちとは一緒に生きていった方がいいよ」と言い続けていますが、一緒に生きる、人としてつながる、そのことで彼らが生きている意味、一緒に生きる意味がわかり、私たちの社会は豊かになります。  ぷかぷかは彼らを支援しているのではなく、彼らに支えられています。彼らがいること、彼らのいのちがそこにあること、そのことがぷかぷかを支え、ぷかぷかのファンの人たちを支えています。まさに『つながるいのち』です。  下の写真は『つながるいのちの木』です。  いのちを生物学的な面だけではなく、『つながるいのち』という視点で事件を論ずるべきだった、と裁判官を批判していました。そうしないと遺族の悲痛な訴えに答えられない、と。  この『つながるいのち』でいえば、やまゆり園こそ、『つながるいのち』を感じられない現場だったのではないかと思います。植松被告がそういうものを感じながら仕事をしていれば事件は起こらなかったと思います。目の前の障がいのある人と、人として全くつながっていなかった、ということです。  障がいのある人と、人としてつながる、ということを日々の活動の中でやってこなかったやまゆり園の事件への責任はどうなるのでしょうか?そこの責任をきちんと追及しない限り、事件の温床は残されたままです。
  • 作品は、彼らが作り出す新しい価値そのもの。
     以前市会議員の方がぷかぷかに見学に見え、アート屋わんどに展示されているぷかぷかさんの作品を見ながらこんなことを言いました。 「いい作品ですね。指導が大変だったでしょう」 と。それに対し、 「いえ、指導なんかしていません。指導すると、こんなに素晴らしい作品はできません」 といいました。  ぷかぷかさんの作品は、作品を通してのぷかぷかさんとの新しい出会いであり、ぷかぷかさんたちが作り出す新しい価値そのものです。今までにない新しい価値は社会を豊かにします。   下の作品は、彼らの文字がそのまま味のある作品になる、ということがよくわかります。これが彼らが作り出す新しい価値です。私たちが書いても、こんな価値ある作品になりません。そんな私たちが指導なんか入れたりしたら作品が台無しです。                  ところが、アートをやっている福祉事業所で、作品には必ずスタッフがこうした方がいい、ああした方がいい、と指導を入れるところがあるそうです。そうしないと売り物にならない、と考えているそうです。  彼らの作品に対する考え方が、ぷかぷかとはまるっきり違うみたいですね。というか、メンバーさんとスタッフの関係そのものが違うのだろうと思います。  ぷかぷかでは「一緒に生きていく関係」です。それは、作品も含め、相手のそのままがいい、と思う関係です。だから一緒に生きていく。  指導を入れるところは「支援する関係」です。支援する関係は、相手のそのままを認めない関係です。支援をしないと一人前ではない、そのままでは価値がない、と考えています。だから指導を入れる。  それがいいかどうかはお客さんの評価を見ればわかります。ぷかぷかで作品に指導を入れたりしたら、ぷかぷかのファンは、多分、もう来なくなります。ぷかぷかのファンは、彼らの作品が好きなのです。彼らの作品に価値があると思っているのです。  指導を入れているところでも作品の売り上げは落ちているそうです。なぜ落ちているかをどう評価しているのか知りませんが、多分指導が足りないからだ、という風に受け止めているのではないかと思います。  一番困るのは、いつも指導を入れられて思うように表現できないメンバーさんです。思うように表現できないと、創作意欲がなくなっていきます。作品がどんどんだめになっていきます。さらに売れなくなる、という負のスパイラルになります。  よかれと思って支援をしていると思うのですが、支援をすることで、作品をだめにしてしまったり、メンバーさんの創作意欲をそいでしまうとしたら、それはやっぱりまずいんじゃないかと思います。社会の財産、といっていいものがなくなっていくわけですから、社会の損失です。
  • 障害のある子どもが生まれたとき、「おめでとう」って言える社会をどうやって作っていくのか
    木村議員のインタビュー記事。 digital.asahi.com  木村さんが望むのは 《 障害のある子どもが生まれたとき、「おめでとう」と言える社会 》 だといいます。記事の最後に 《 福祉サービスは増えましたが、重度訪問介護が就労中などに公的負担の対象外だったり、移動支援が自治体により差があったり。普通学校への入学が重度障害を理由に認められない例もある。こうした課題をみんなで解決できたとき、障害のある子が生まれて「おめでとう」と言える社会になる。》 とありましたが、つい先日も、重度障害児の普通学級への入学を求めた裁判で、それを認めない判決が出たりして、 www.kanaloco.jp  「共に生きる社会かながわ憲章」を定めている神奈川県でこんな判決が出されるくらいですから、障がいのある子どもが生まれて「おめでとう」と言える社会になるには、まだまだ気の遠くなるほど遠いなと思ってしまいます。  障がいのある子どもが生まれて「おめでとう」といえる社会は、制度的な問題の解決よりも、個別の小さな幸せ感が社会に広がる方が実現性がある気がします。  障がいのある人たちと一緒にいることの幸せ感です。   ぷかぷかは設立当初から「障がいのある人たちとは一緒に生きていった方がいいよ」と言い続け、彼らと一緒に生きていく幸せ感を周りにばらまいてきました。  その成果があってか、先日ブログでも紹介しましたが、知り合いの方が妊娠し、検診の時に、障がいのある子どもが生まれる可能性がありますが、どうしますか?と聞かれ、迷いなく生む選択をしたそうですが、その理由の一つにぷかぷかさんとの出会いがあった、といいます。ぷかぷかさんたちの豊かな暮らしぶり、楽しい毎日を見ていたから、迷いはなかった、と。  ぷかぷかに何度か遊びに来たり、自分の受け持っている大学の授業で、ぷかぷかさんとのワークショップをやったりしました。そんな経験の中で、彼らと一緒に生きる幸せ感をしっかり感じ取っていたのだと思います。  そのリアルな幸せ感が、迷いなく生む選択の後押しをしたのだと思います。ぷかぷかさんたちがいることの意味、ぷかぷかさんたちがいることで生まれるチカラを改めて思います。  彼女の周りの人たちもぷかぷかさんたちのこと、幸せに過ごしている障がいのある人たちのことを知っていれば、障がいのある子どもが生まれても、みんなで 「おめでとう!」 っていえると思います。そういった関係がもっともっと広がっていけば、社会全体が「おめでとう!」っていえるようになるのだと思います。  「障がいのある子どものいる生活もいいもんだよ」  「ドタバタだけど、すっごく楽しいよ」  「毎日が新発見!」 っていう楽しいメッセージを発信している人たちがいます。  重度障害児のhanaちゃんのファンをFacebookでたくさん作った花岡知恵さん、二人の重度障害児を「うちのぷかぷかさん」楽しそうにいい、地域でたくさんのファンを作った浅川素子さんたちです。彼女たちの試みこそが、障がいのある子どもが生まれたとき、「おめでとう!」って言える社会を作るのだと思います。  下の写真は浅川さんの子どもがまだ小さかった頃のお風呂場。ボディシャンプー1本を全部使って、こんなに楽しい泡風呂にしたそうです。親が、こういったことを子どもと一緒に楽しめるかどうかですね。私なんかは「ひゃ〜、楽しそう!」って、一緒に泡風呂に入りたいくらいでした。
  • 相模原障害者殺傷事件と「たいこん」の話
     相模原障害者殺傷事件を取材して、押しつぶされそうな気持ちになった共同通信の記者が、ぷかぷかにきて元気を取り戻した、という話が「47news」に載りました。気持ちが前向きになるとてもいい記事です。 www.47news.jp  中に《たいこん》の話があります。ある日パン屋に行くと、そこで売っていた大根のラベルに《たいこん》と書いてあって、「ン?」とか思いながら、思わず笑っちゃいました。あっ、いい、いい、今日はこれで行こう!って即座に決めました。こんな時、「これ間違ってるじゃん」なんてダサいことは、間違ってもいいません。それがぷかぷかです。  ぷかぷかさんが作り出す言葉は、時にこんな風に、なんか幸せを感じるような笑いを生み出します。いっしょに生きててよかったなと、こんな時思います。  たまたま《たいこん》と書かれた日、お客さんがやってきました。  「この大根ください」  「すみません、これ大根じゃなくて 今日は《たいこん》なんですが、よろしいですか?」  「え?《たいこん》?」  と一瞬、間が開いたものの、すぐに了解して  「ああ、《たいこん》 なのね。じゃ、それください」 って、お客さんは笑っていました。  多分いつもきているお客さんで、ぷかぷかの楽しさ、センスをよく知っている方だったのだと思います。  「すみません、今日はこれ《たいこん》です」 といえば、  「ああ、《たいこん》 なのね」 とやさしく言葉を返してくれる関係がここにはあります。一緒に 《たいこん》を楽しめる関係。そういう関係がぷかぷかでは日々の営みの中で自然にできているのです。  いっしょに生きててよかったなと思える日々をお客さんといっしょに積み重ねること、そういう日々を発信すること、そして日々のそんな思いをたくさんの人と共有すること、それが相模原障害者殺傷事件を超えることだと思います。  難しい議論を積み重ねることも大事ですが、なかなか先が見えません。でも、《たいこん》は、ひと言で重い事件を飛び越えていきます。  大事なことは、障がいのある人もない人も、お互い気持ちよく生きていける社会を具体的に作り出すことです。《たいこん》は、そのための鍵がどこにあるかを教えてくれます。
  • どんな判決が出ようと、私たちはひよりちゃんたちと一緒に生きていきます。
    ひよりちゃんがご飯を食べに来ました。そばにいるだけで幸せな気持ちになります。   人を幸せな気持ちにさせる、というのは、すごいチカラだと思います。生産性の価値基準では語れないチカラであり、その人がいることの意味であり、価値です。  そういうチカラを持った人があちこちにいることが、街の豊かさではないかと思います。  いつだったかぷかぷかの上映会の感想に、  「ぷかぷかがあることが街の価値を高めている」 と感想を書いてくれた方がいましたが、ぷかぷかさんたちのチカラをちゃんと見ている方なんだと思いました。  「街の価値」という言葉が素晴らしいと思います。そういうものをぷかぷかが作りだしている、ということ。  都筑区のグループホーム反対運動では、反対理由の中に 「障害者のグループホームができると土地の価値が下がる」 というのがありましたが、正反対の評価です。  この差はなんなのか。  結局のところ、当事者の人たちといい出会いをしているかどうかだと思います。  私は街の人たちに障がいのある人たちに出会ってほしいと思ってぷかぷかを街の中に作りました。たくさんの人が彼らと出会い、たくさんのファンができました。 「ぷかぷかがあることが街の価値を高めている」 という言葉も、その出会いの中から生まれてきたのだと思います。  人を幸せな気持ちにさせるような人は、街の宝だと思います。宝は大事にしたいです。 「障害者に税金を使う意味があるのか」 という意見もありますが、それに対しては 「意味があります」 と自信を持って言いましょう。  そのためには、彼らと一緒に生きる事で私たち自身が豊かになったことを実感することがまず第一です。そのことを外に向かって発信しましょう。街が豊かになったことも。  さらに、彼らと一緒に生きることで社会を豊かにするものをいっぱい作りましょう。  ひよりちゃん、真ん中で頑張っています。  「障害者はいないほうがいい」ではなく、こういう人とはやっぱり一緒に生きていったほうがトク!なのです。  やまゆり園事件の判決がもうすぐ出ます。  どんな判決が出ようと、私たちはひよりちゃんたちと一緒に生きていきます。
  • 人としてのつながりは、大きなチカラ
    「いやぁ〜大変だろうな」って思ってしまうような日々の中で、尚も子ども達と楽しい日々を作り出しているお母さん。 ameblo.jp  「重度障害者は不幸しか生まない」といったやまゆり園事件の被告と、同じく重度障害と言われる子ども達と、こんなにも日々を楽しむお母さんは、一体どこがちがうんだろうと思います。  やっぱりどこかで人として出会っているのだろうと思います。それがあるから、どんなに大変な日々も楽しめたりするのだと思います。  うちの娘は精神障害があって、調子が悪いときはほんとうに「助けて!」って叫びたいくらい大変です。それでもなんとかやっていけるのは、おだやかになったときの人としてのつながりがあるからだと思っています。その一点で、すべて許してしまうというか…。  人としてのつながりは、大きなチカラですね。これはもう理屈じゃないです。共に生きる、なんて屁みたいな言葉は、もうやめた方がいい。甘っちょろい幻想を抱かせるだけです。
  • 全国の支援の現場が、発想を変えれば、今までにない新しい価値がたくさん生まれ、社会はもっともっと豊...
     先ほどブログを書いたあとでふと思ったのは、そもそも支援の現場で障がいのある人たちと豊かなものを作り出そうという発想があるのかどうか、ということ。  「支援」は障がいのある人たちに「何かやってあげる」一方的な関係であり、一緒に何か新しいものを作っていく関係ではありません。そこがぷかぷかとの決定的な違いだと思います。  今まで何度も書きましたが、障がいのある人たちの作り出す価値を1、スタッフの作り出す価値を1とすると、支援という関係の中では1+1が作り出すものは、2ではなく1のままです。「何かやってあげる」ことが目的なので、障がいのある人たちが生み出すものを見つけ出し、それを生かそうという発想が生まれません。そこからはスタッフの幅のものしか生まれません。だから1+1はどこまで行っても1のままなのです。  ぷかぷかでは1+1が5くらいの価値を生むこともあります。なぜならぷかぷかさんが生み出すものをいつもわくわくしながら見ていて、それをなんとか生かそうと思っているからです。そのままにしておくのはもったいないと考えるからです。  この人の描く字は味があるので、ベンチに描いてもらったり、Tシャツに描いてもらったりしています。  そうすると字の価値が何倍にもなります。こうやって新しい価値が生まれます。1+1が5くらいの価値を生み出すのです。  ベンチはお洒落な美容院へ、Tシャツはお客さんの手元へ行き、わくわくするような日々を作り出します。  これが障がいのある人たちと一緒に生きることで生まれる新しい価値であり、一緒に生きる意味です。彼らと一緒に生きることで、社会が豊かになるのです。一緒に生きていった方がトク!なのです。  全国の支援の現場が、こんな風に発想を変えれば、今までにない新しい価値がたくさん生まれ、社会はもっともっと豊かになるような気がするのです。
  • 障がいのある子どもがいることで、日常世界がこんなにも楽しく、豊かになる
     障がいのある子ども達は、とんでもなく自由です。それに引き換え、私たちはとんでもなく不自由です。だから彼らとのおつきあいに苦労します。  浅川素子さんもずいぶん苦労されたようです。それでもあるとき、ふっと発想を変えてみた。そうするとこんなにも楽しい空間、時間が生まれました。  お風呂の写真が感動的に素晴らしいです。障がいのある子どもがいることで、日常世界がこんなにも楽しく、豊かになることが、この一枚の写真から伝わってきます。うちには子どもが3人いましたが、こんなにも楽しいお風呂はありませんでした。  何よりも障がいのある子ども達のおかげで、お母さんが自由になれたことが素晴らしい。 ameblo.jp
  • 2月11日(火・祝) 演劇ワークショップの記録映画、上映します。
     2月11日(火・祝)東久留米で『Secret of Pukapuka』と第5期演劇ワークショップの記録映画『ほらクマ学校を卒業した三人』をやります。  演劇ワークショップの記録映画は、なかなか上映する機会がないので、ぜひ見に来て下さい。障がいのある人たちと一緒に生きると何が生まれるのか、あるいは、一緒に生きる意味ってなに?、といったものがよく見えます。  「共生社会を作ろう」とか「共に生きる社会を作ろう」とかよく耳にしますが、耳障りのいい言葉が聞こえてくるだけで、そこで何を作り出そうとしているのか、といったことがさっぱり見えません。具体性がないのです。どこまで本気なのか、と思ってしまいます。  演劇ワークショップは、障がいのある人たちと一緒に芝居を作り、舞台で発表します。そういう社会を作ろう、と本気でやっているのです。  どんな舞台ができるのか。去年、その舞台を見た人がこんなことを書いていました。  「障がい者イベントというと支援者にしっかりと支援されてる障がい者が決まった事を大人しくやっているイメージがあるけど、ここでは全く違う」  下の写真がその舞台。「支援」ではなく、「一緒に生きる」関係が作り出した舞台です。背景画もぷかぷかが制作。一緒に勝負する、というか、緊張感のみなぎる舞台です。  一緒に生きると何が生まれるのか、がよくわかる舞台です。一緒に生きる意味も。  こういった舞台をどうやって作っていったのか、映画はその6ヶ月にわたる芝居作りの記録です。  津久井やまゆり園事件についても、被告が言った「障害者はいない方がいい」「障害者は不幸しか生まない」という言葉に対して、それは間違ってると言うだけでは事件を生み出した社会は何も変わりません。被告の言葉に対し、「障害者はいた方がいい」「障害者は不幸しか生まないのではなく、社会を豊かにする」という実態を作り出すことが大事だと思います。私たちがどういう社会を作ろうとしているのか、それを具体的に提案するのです。  ぷかぷかはまずお店でそれを作り続けてきました。演劇ワークショプでは、一緒に芝居を作り、それを舞台で発表します。私たちが目指す社会が、ほんの少し見えます。  演劇ワークショップは台本があって演出家の指示の通りにやる、といったやり方ではなく、参加者みんながアーダコーダ言いながら作っていきます。障がいのある人達も一緒なので、すんなりまとまりません。すんなりまとまらないところで、どうしよう、どうしよう、とみんなで悩みます。この「悩む」ということが、場を豊かにします。私たちを磨きます。  映画はその過程を飾ることなく淡々と記録しています。  ぜひ見に来てください。あなたの心もきっと耕してくれるはずです。
  • 「ま、いいか」って感覚が大事
    身代わり説はおとぎ話じゃないの、というブログに、 ●難病重度のエリート障害者・健一大内さんは  最近、思う様に動かん体に憤り見たいなん感じるけど、変わってくれとも、五体満足の体の癖にロスジェネだの生きづらさだの腑抜け連中の身代わりになった覚えも無いね😃  とズバリ。この人にとっては、五体満足の体のくせにロスジェネだの生きづらさだのいうのは腑抜けだ、と。日々の苦労がリアルに想像できます。  「身代わり」なんて話は、やっぱり健常者に心地いいファンタジーなのです。だからこういう話は受けるんだと思います。一時はやった映画『四分の一の奇跡』がいい例です。 健一大内さんのFacebookには 恵方巻🍣用、刺身🐟 巻いて喰いたいけど道具が無いから鉄火丼にして喰う🍴 食品ロスばっかしてるコンビニ🏪もんは意地でも買わん頑固な生活🐟🔪  まるで闘う生活。これを鉄火丼にして喰うなんて、やっぱりこの人はエリート障害者や。  こんな人を前に、やわいおとぎ話は恥ずかしい。なんか当事者のこと、私たちは知らなさすぎる気がする。 ●セミナーに参加したツジさんは 私はこのお父さんの気持ちは分かるんですよ。全体的に頑張っています!という感じがして…頑張るのをやめて、ま、いいか、と脱力したらもっと楽しくなるのに、と思いました。  全くその通り。「ま、いいか」っていう感覚、この脱力、しなやかに生きるには、すごく大事。  ぷかぷかさん達と毎日ごちゃごちゃ、ふにゃふにゃ、わいわいつきあっていると、だんだんそういう感覚になります。ガチガチの心と身体がしなやかになっていくのです。そして、そういう心と身体が、ぷかぷかの「ま、いいか」感たっぷりの空気を作り出しているのです。  「がんばらなきゃ」「一生懸命やんなきゃ」といつも思って疲れている人、ぜひぷかぷかにあそびに来て下さい。ゆるっと力が抜けて、心も身体も、楽になることまちがいなし。 
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