ワークショップの中で、なんだか何度も泣きそうになった。
演劇ワークショップに参加した人が、ぷかぷかさんとの出会いを書いてくれました。少し硬い文章ですが、ぷかぷかさんと出会うことで、とても大切なものを見つけたことがよくわかります。 ●●● 空気を読む力があるひとたちは、文脈、TPOに沿った行動ができる。しかしTPOに従えば従うほど本来の人間としての欲望は抑圧される。走りたい、歌いたい、叫びたい、笑いたい、触りたい、そう言った欲望は「ふさわしくないもの」として隠される。 それらの欲望は「こうするべき」という社会的枠組みによって常に欲求不満だ。舞台の上じゃなくたって、コンビニや公園、電車の中だって、ワイワイ騒げたら楽しいはずなのに。その感情に蓋をして、むしろそういう人たちを弾圧するような風潮さえある。人様に迷惑をかけないように、不快に思わないように。僕たちは感情を表出できないアンドロイドになる。 一体どっちが障害者なんだろう。踊りたい時に踊り、喋りたい時に喋り、歌いたい時に歌う。こんなにも自由に生きている彼らより、我々は優れているのだろうか。 「社会」というみんなで決めた枠組みに乗れない人たち、適応できない人たちを「この社会で生きる上での障害を抱えた人たち」とするならば、だったら「その社会」がなんぼのもんだと言うのか。彼らからしたら、「ほっといてくれ」って感じなのかもしれない。そんな退屈そうで窮屈そうでルールに縛られた社会で、なんで生きなきゃいけないのだろうか。 語る言葉を持たない彼らは、そんなことは言わないかもしれない。だけど騙る言葉ばかり持つ僕たちが正しいとは限らない。 喋れる人たちだけで、考えられる人たちだけで勝手に決めた「社会」に彼らを無理やり適応させること、それこそが傲慢な行為であり、余計なお世話なのだと僕は思う。 僕は今回の演劇ワークショップで、心のままに表現する彼らに触発され、踊り、歌い、触れ合った。「アーティスト小針」(芸術という文脈に表現を許された人)としてではなく「素の小針」に近い状態で彼らと対峙した。葉っぱ隊を観ている時は、観客席にいながら彼らと踊った。その時間が何よりも楽しかったし、自分らしかったと思う。じゃあ僕は普段、この社会において自分を偽って生きているのか。そんなことはない。その時その時の僕はやっぱり僕だ。環境こそが個人を規定する。じゃあ僕はこう言うべきだろう。職場の環境にいる時の自分より、普段演劇をしている時の自分より、ぷかぷかじゃない人たちと一緒にいる時の自分より、あの演劇ワークショップの環境にいた時の自分が好きだと。 変に取り繕うことも、空気を読むこともしない。ただ笑いかけてきたらそれに答える。彼らと一緒にただ歌い踊る。そんな時間を知ってしまえば、当然「普通」の方に疑問符が浮かぶ。一日中死んだ顔でパソコンに向かい合って書類作り。行きと帰りはまたまた死んだ顔で満員電車に揺られる。家に帰れば1人(という人が増えている気がする)。その生活のどこに喜びがあるのだろう。申し訳ないが、ぷかぷかさんの方が絶対に幸福度の高い人生を送っている。そんな彼らを捕まえて「障害者」なんて、なんたる無礼な話か。僕たちは無意識に人間関係にヒエラルキーを作って「上と下」を作ってしまうけれど、なんだか今までの話を踏まえると、自分のことが滑稽に思えてくる。WS中、せつさんが話してるときに喋り出す人、寝てる人、外に出ていく人、泣いてる人、歌ってる人、そんな空間でバカ真面目に話を聞いている自分の方が、なんだかアホに思えてくる。常識なんてないんだ。自分のしたいように、生きたいように生きればいい。他人の目なんて気にする必要なんてない。もちろん、共存は大事だ。他者を尊重することは大事だ。でも最低限そこができていれば、あとはなんだっていいじゃないか。とかなんとか言いながら、結局WS中のせつさんの話が聞けてしまう僕だから、そこは諦める。それは僕の自分らしさなんだ。 「しんごっち」の役で出演。しんごっちのお母さんはこの場面で泣いてしまったという。 話があちこちに飛んでまとまらなかったが、とにかく僕が言いたいことは、めちゃくちゃ楽しかったと言うことと、WS中、なんだか何度も泣きそうになったことと、少しだけ自由になれたということだ。そして、身近な人を大切にしようと思ったということだ。ぷかぷかWSに関わった期間で胸に「ポッ」っと灯った暖かい何かがある。それを大切に今後も生きて生きたい。 ●●● 《WS中、なんだか何度も泣きそうになったことと、少しだけ自由になれたということだ。》 ワークショップの面白いところは、ただいっしょに芝居を作って楽しいというだけでなく、それぞれの中で、こういった思いもかけないようなことが起こることだと思います。それがぷかぷかさん達と一緒にやる意味だと思います。彼らといっしょに生きる意味をあらためて思いました。