ぷかぷか日記

相模原障害者殺傷事件と「たいこん」の話

 相模原障害者殺傷事件を取材して、押しつぶされそうな気持ちになった共同通信の記者が、ぷかぷかにきて元気を取り戻した、という話が「47news」に載りました。気持ちが前向きになるとてもいい記事です。

www.47news.jp

 中に《たいこん》の話があります。ある日パン屋に行くと、そこで売っていた大根のラベルに《たいこん》と書いてあって、「ン?」とか思いながら、思わず笑っちゃいました。あっ、いい、いい、今日はこれで行こう!って即座に決めました。こんな時、「これ間違ってるじゃん」なんてダサいことは、間違ってもいいません。それがぷかぷかです。

 ぷかぷかさんが作り出す言葉は、時にこんな風に、なんか幸せを感じるような笑いを生み出します。いっしょに生きててよかったなと、こんな時思います。

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 たまたま《たいこん》と書かれた日、お客さんがやってきました。

 「この大根ください」

 「すみません、これ大根じゃなくて 今日は《たいこん》なんですが、よろしいですか?」

 「え?《たいこん》?」

 と一瞬、間が開いたものの、すぐに了解して

 「ああ、《たいこん》 なのね。じゃ、それください」

って、お客さんは笑っていました。

 多分いつもきているお客さんで、ぷかぷかの楽しさ、センスをよく知っている方だったのだと思います。

 「すみません、今日はこれ《たいこん》です」

といえば、

 「ああ、《たいこん》 なのね」

とやさしく言葉を返してくれる関係がここにはあります。一緒に 《たいこん》を楽しめる関係。そういう関係がぷかぷかでは日々の営みの中で自然にできているのです。

 

 いっしょに生きててよかったなと思える日々をお客さんといっしょに積み重ねること、そういう日々を発信すること、そして日々のそんな思いをたくさんの人と共有すること、それが相模原障害者殺傷事件を超えることだと思います。

 難しい議論を積み重ねることも大事ですが、なかなか先が見えません。でも、《たいこん》は、ひと言で重い事件を飛び越えていきます。

 大事なことは、障がいのある人もない人も、お互い気持ちよく生きていける社会を具体的に作り出すことです。《たいこん》は、そのための鍵がどこにあるかを教えてくれます。

 

 

そのままの彼らが一番いい

 『ぷかぷかな物語』の感想が久しぶりに届きました。昨年12月、共進印刷の「ありがとうナイト」というイベントがあり、そこでぷかぷかさんに似顔絵を描いてもらったことがきっかけでぷかぷかのファンになった方です。

 こういう福祉と全く関係のないところでぷかぷかのことを知り、ファンになってしまった方が最近は多いです。そういう方はとても新鮮な目でぷかぷかを見てくれます。福祉とは違う目です。そういう目の気づきこそ大切な気がします。いわゆる「福祉」をはみ出すような価値を、そういう目は見つけてくれます。

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 高崎さんのぷかぷかさんへの愛情がとても伝わりました。 経営などで大変なことも経験されながら、それでもぷかぷかさんと一緒にいることが「トク」と思えるほど、ぷかぷかさんと一緒の時間が輝かしく、読んでいて楽しかったです。
 私はどうしてぷかぷかさんたちといる雰囲気に居心地の良さを感じるのか、分かった気がしました。それはぷかぷかさんたちが、社会(規範)に合わせることなく自分らしく振舞って(働いて)いるところに、素直に明るさや楽しい気持ちをもらっていたんだと思います。
 それを『ぷかぷかな物語』を読んで気づきました。 効率性が重んじられることに息苦しさを感じる中、ぷかぷかさんのいる空間はそれを払しょくして安らぎを与えてくれる場でした。
 パン作り、ワークショップ、芝居などでの心温まるお話と、高崎さんの思いの込められた『ぷかぷかな物語』は、私の中の大切な一冊になりました。ありがとうございました。

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 どうして居心地がいいのか、それはぷかぷかさんたちが社会に合わせてないからだ、という気づきは、すごく大事ですね。
 ぷかぷかは別に居心地のいい場所を目指して作ったわけではありません。どこまでも一緒に生きる場、一緒に働く場を作っただけなのですが、結果的には誰にとっても居心地のいい場ができました。
 ポイントは彼らが社会に合わせていない、というところ。でもどうして社会に合わせていないと居心地のいい場ができるのか。
 きっかけは今まで何度も書いていますが、接客の講習会で、接客マニュアルに合わせて接客をやろうとするぷかぷかさんが、なんだか気色悪くて、ああ、もう見たくない、と接客マニュアルはやめました。接客マニュアルは社会に合わせるマニュアルです。それをやめて、もうみんな好きにやろう、という風にしたら、今の居心地のいいお店ができました。
 社会に合わせることなく、自由に振る舞う彼らの姿は、お客さんも自由にするのだと思います。だから居心地がいい。
 「素」の彼らは、この息苦しい社会を救うのだと思います。だから「支援」なんかして社会に合わせようとすると、そういうチカラが発揮できなくなります。そのままの彼らが一番いいのです。
 
 そのままの彼らの接客

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小さな命を守る決心を応援してくれた気がします。

やまゆり園事件で犠牲になった人たちは、

「どうして私は殺されなければいけないの?」

と思いながら、やりきれない思いで死んでいったのではないかと思います。事件を生んだ社会、つまりは私たち一人一人に向けられた問いです。

 やまゆり園事件を「私の問題」として考える、と題したブログに、事件を話題にすることはもういいんじゃないか、という書き込みがありました。でも私は、殺された人たちの思いが頭に浮かび、これから先もずっとこの問いと向き合い続けようと思っています。この問いを「私の問題」として考える続ける中で、人生をが少しずつ豊かになっていく気がするのです。それは社会が豊かになることです。

 

 出生前診断の問題があります。出生前診断で陽性が出ると、90%を超える人が生まない選択をします。殺される胎児は、相模原障害者殺傷事件で犠牲になった人たちと同じように

「どうして私は殺されなければいけないの?」

と思いながら死んでいってるのではないかと思います。

 親にしてみれば、障害のある子どもとの人生に幸福なイメージが持てないのだと思います。「障害者は不幸しか生まない」はやまゆり園事件の犯人だけの思いではなく、社会全般の思いなのだと思います。

 でも「それはちがう」というメッセージを私たちは出さなければいけないと思います。障害のある子どもとの人生も、すごくいいよっていうメッセージです。ハッピーだよっていうメッセージ。

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 知り合いの方が妊娠し、医者から障害児の可能性がありますが、どうしますか?と問われたそうです。迷いなく生む方を選択したそうですが、その理由の一つにぷかぷかさんとの出会いがあったといいます。ぷかぷかさんたちの豊かな暮らしを知っていた、というのが生む選択を後押ししてくれた、というのです。

「小さな命を守る決心を応援してくれた気がします。」

とメールにありました。

 なんともうれしいメッセージです。

 一緒に生きる日々をみんなで「いい一日だったね」っていえる関係が、豊かな暮らしを作り出し、それが小さな命を救うチカラになったんですね。本当にうれしいです。

 

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やまゆり園事件を「私の問題」として考える

 《一緒に生きる日々を「いい一日だったね」っていえること》と題したブログをシェアしてくれた方のコメントがよかったので紹介します。

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津久井やまゆり園、って書くと、
他の投稿に比べてイイネがつきません。笑
堅い話はみんな読むの面倒くさいんだろうな。
どうしたら伝わるだろう、といつも考えてます。

裁判の判決のニュースだけ見てても、
視聴者は、被告人の残虐さが起こしたこと、
とか、あぁそういうもんなんだな、
ってひとごとでしか分からない。

私だって、ニュースだけ聞いてたら、
争点違うんじゃない?とは思ったけど、
大多数が思うようにどこか他人事で終わってたかもしれません。

ひどい事件、とは思っていたけど、
事件の本質が何なのか、
実は私たちがどこかで出会う
小さな差別や区別と紙一重だということを

自分の中に優生思想はないのか❓と
自問自答することを、
しなかったかもしれません。

ぷかぷかさんのブログや 

www.pukapuka.or.jp

「ぷかぷかな物語」↓
http://www.gendaishokan.co.jp/goo…/ISBN978-4-7684-3571-7.htm

を読んで、

実際にぷかぷかさんに出会って、
だんだんと自分の中の違和感とか
そういったものと向き合おうとするようになりました。

知らない、が起こすことがどんなに怖いことか。
知らない、を少しでも見たことある、
知ってる、好き、一緒にいたいな、

…に変えるために、
私は息子との生活や自分自身の思いを
発信しています😊🌸

www.facebook.com

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  ぷかぷかと出会ったことがきっかけで、こんな風に人が変わるなんて、うれしいですね。

 やまゆり園事件は、やはり「自分の問題」としてみていかないと、犠牲になった人たちに申し訳ないと思っています。どこに自分との接点があり、どうすればいいのか、を一生懸命考える。優生思想云々の大きな話ではなく、私の問題として考える。そういうことが、事件を生んだ社会を変えていくのだと思います。

 それと、「共に生きる社会を作ろう」「共生社会を作ろう」といった、抽象的な言葉で話を終わらせないことが大事。どこまでも具体的に何をするのか、ということです。《一緒に生きる日々を「いい一日だったね」っていえること》と題したブログは、まさに「私たちはこういうことをやります」という具体的な提案です。

 そういうことを日々積み重ねていく。あーだこーだの話はもういい。そんなことに時間を費やすなら、彼らと一緒に何か楽しいことをやった方がずっといいです。

 下の写真のようなことに力を注いだ方が、ずっと意味があります。

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一緒に生きる日々をみんなで「いい一日だったね」っていえること

  やまゆり園事件の裁判、どうしてあのような悲惨極まりない事件が起こったのか、私たちの生きている社会の何が問題だったのか、どうして福祉の現場の職員があのような事件を起こしたのか…といったことが一切明らかにされないまま、死刑の判決が下りました。

 何のための裁判だったのかと思います。ただただむなしい思いでいます。

 

 彼を死刑にしたところで、事件で明るみになった問題は、何も解決しません。

 彼は意思疎通の図れない重度障害者は生きている意味がない、不幸しか生まない、と言いました。そういう人たちとお付き合いのない人たちは、なんとなくそうか、と思ってしまいます。そういう人たちが大部分の社会の中で、私たちはどんなことをしていけばいいのだろう、と思います。

 あーだこーだ議論するだけでは、社会は何も変わりません。では、どうしたらいいのか。

 ふだん障害のある人たちとおつきあいのない人たちでも、

「あっ、そうか、障害のある人たちとは一緒に生きていった方がいいんだ」

「彼らは周りの人たちをハッピーにして、豊かにするんだ」

って思える事実を日々の暮らしの中で作っていくことだと思います。共感できる事実を作っていくことー。

 

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 ぷかぷかでは、お互いが

「いい一日だったね」

っていえる日々をみんなで作り続けています。

 一緒に生きる日々をみんなで「いい一日だったね」っていえること。そういう日々を作り続けること。そのことを外に向かって発信し、共感する人を増やすこと。ぷかぷかは、そうやって「ぷかぷかさんが好き!」というファンを増やし、地域社会を変えてきました。

 ぷかぷかができて10年。ぷかぷかの周りの社会が少しずつ変わって来ました。それをこれからも続けていこうと思います。

 

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 ぷかぷかはこの5月から重度障害の人たちの働く事業所をスタートさせます。生活介護の事業所です。野良仕事をやります。地域の人たちが自由に出入りし、一緒に野良仕事ができるような風通しのいい事業所です。

 宮澤賢治の作品に『虔十公園林』というのがあります。みんなから馬鹿にされている「虔十」という青年がいました。

《風がどうと吹いてぶなの葉がチラチラ光るときなどは虔十はもううれしくてうれしくてひとりでに笑へて仕方ないのを、無理やり大きく口をあき、はあはあ息だけついてごまかしながらいつまでもいつまでもそのぶなの木を見上げて立ってゐるのでした。》

そんな彼が植えた杉が、彼の死後、何十年か後に、町のみんなから愛される立派な公園林になった話です。

 新しい事業所の中心になっている人はみんなで「虔十」になって、「虔十公園林」を作るようなつもりで野良仕事をやるそうです。

 今までとはイメージの全く違う、重度障害の人たちと一緒に働く場ができます。重度障害の人たちと一緒に何が創り出せるか、楽しみなところです。一緒に新しいものを創り出す創造的活動です。

 これが新しい事業所の表札。田んぼと畑で「でんぱた」。

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そうすれば社会はもっともっと元気になる気がします。

土曜日にボランティアに来られた方の感想です。

fuku0509.hateblo.jp

  すごく緊張して見えたようですが、そんな心をぷかぷかさんたちはすぐにほぐしてくれたようです。このあたりがぷかぷかさんのすごいところです。

 

 以前やまゆり園事件の遺族の方が見えたことがあったのですが、そのときも、私はどんな言葉をかけたらいいのかわからなくて、「こんにちは」の後に続く言葉が出てこなくて本当に困りました。そのときも近くにいたぷかぷかさんたちが

「どこから来たの?」「お名前は?」

と矢継ぎ早に聞き、遺族の方の顔がみるみるほぐれました。

 ひとことで、深く傷ついた人の心を癒やしてしまったのです。

 こういうことは私たちには絶対にできないことです。そういうチカラをぷかぷかさんたちは持っているって、なんかすごいじゃん!て思うのです。

 彼らのそういうチカラをいろんなところでもっと生かした方がいい、そうすれば社会はもっともっと元気になる気がします。

人を殺した人間も教育によって、あるいは出会いによって立ち直れると信じられるかどうか

 やまゆり園事件の被告に対する死刑について書いたブログに知り合いの弁護士がコメントをくれました。

 

《 人を殺してはいけないと言いながら、死刑制度を認めるのは、論理矛盾です。ただ、今の刑法や世論は理屈ではなく「応報(目には目を)」という原始的な感情論に基づいています。 》

 

 原始的な感情論を超えるにはどうしたらいいでしょう。

 

《 応報の反対観念が「教育」で、その前提には「性善説」があります。人を殺した人間も教育によって立ち直れると信じられるかどうかです。 》

 

 映画『プリズンサークル』のホームページには「処罰から回復へ 今、日本の刑務所が変わろうとしているー」とあります。

prison-circle.com

 

 やまゆり園事件の被告にこそ、こういう形で、自分が起こした罪としっかり向き合う時間が必要ではないかと思います。

 『プリズンサークル』で紹介されている刑務所では

《 ここの真の新しさは受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入している点にある。なぜ自分は今ここにいるのか、いかにして償うのか? 彼らが向き合うのは、犯した罪だけではない。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していく…。》

とあります。これが「処罰から回復へ」です。

 

 極端な話ですが、被告がぷかぷかへ来て、ぷかぷかさんたちと出会うことができたら、「回復する」ということが十分あり得ると思ったりするのです。

 ぷかぷかさんとの出会いの中で、「障害者はいない方がいい」のかどうか、「障害者は不幸しか生まない」のかどうか、きっちりと考えてもらうのです。

 ぷかぷかさんとの出会いは人を変え、社会を変えて来ました。被告がぷかぷかさんと出会うことができたら、彼は間違いなく変わります。

 

 こんな風に人はぷかぷかさんと出会います。

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  裁判での被告の言葉を聞いて、事件を起こした当初と考え方が全く変わっていない。更生の見込みが全くない。だから死刑にするしかない、と社会の多くの人は考えています。被告の考えが変わる環境にいなかったことが全く考慮されていません。

 このまま彼が死刑になるなら、社会は自らの回復の機会をまた一つ失うことになります。 

 

「人を殺した人間も教育によって立ち直れると信じられるかどうか」ということです。そこを信じられるとき、社会は前に向かうのだと思います。

 

社会は死刑の執行に際し、死刑囚は「生きるに値しない」と宣告しているのではないか、という問題

 やまゆり園事件の裁判で、死刑が求刑されていますが、死刑になると、事件で問われたものが、全てそこで終わってしまいます。それはまずいんじゃないか、と思っていましたが、それだけではすまない問題に気づかされました。

 

3月13日(金)の神奈川新聞は

《 相模原殺傷 死刑判決回避を市民団体要請 》

と「リメンバー7.26神戸アクション」の「私たちは事件の被告人を死刑にすることに対して、一同強く反対しています。」というメッセージを紹介していました。

 

①われわれ障害当事者と関係者らが求めることは、あくまでも被告人の反省と真摯な謝罪である。しかし、死刑はそのための時間と機会を永久に奪ってしまう。

②社会の秩序を乱す邪悪な存在として被告人のいのちを抹殺することは、障害者を「不幸しか作らない」存在とみなし殺害した彼の優生思想的考えにそのまま重なる。殺して良いいのちというものを認めることは、被告人の思想を肯定してしまうことである。死刑判決は、社会を覆う優生思想をさらに強化するものである。

③この事件がすべての人に問いかけている課題の大きさ重さは計り知れない。私たちはこのような事件が再び起きないよう、またこの事件が引き起こされた背景の社会を造り変えるよう、一丸となって努力を重ねていかなければならない。しかし、被告人の死刑は、人びとから事件の幕引きと受け止められ、風化と忘却が急速に進む結果をもたらしてしまう。

 

www.kanaloco.jp

 

 3月14日(土)の神奈川新聞はこの問題をさらに深掘りしていました。

 トップページの「やまゆり園事件考 死刑と命①」には遺族の方の割り切れない思いを載せていました。

 死刑を望みながら、「若者に死刑を求めた。その十字架は一生背負わなくてはならない」  その苦難を引き受ける覚悟も同時にあった、と。

 何というすさまじい覚悟か、と思いました。お姉さんの命を奪われ、その辛い思いの中で、「十字架」という苦難を引き受ける覚悟をされたのではないかと思いました。

 これはずんと響きました。私の中で全く抜け落ちていた問題だったからです。あまりに安易に被告の死刑を語ってきたと思います。

 

 論説のページには、障害者差別の批判の延長に「死刑制度の廃止があるべき」と語る社会学者のインタビュー記事があって、この問題をわかりやすく語っていました。

 《被告は重度障害者は「生きるに値しない」と決めつけ、19人を殺害した。では、死刑はどうか。社会は執行に際し、死刑囚に対して「生きるに値しない」と宣告しているのではないでしょうか。》

 《被告を死刑にすることは、彼の考えを部分的ではあれ、認めてしまうことになるのではないか。パラドックスをはらんでいます。》

 《やまゆり園事件では、障害者差別は明確に批判されているけれども、世論は死刑ありき。そこで思考を停止させている。「生きるに値しない生命」はあるのか、それがこの事件が突きつけた核心で、それに私たちが「ない」と言い切らない限り、被告を裁いたことにならないし、「ない」と言うなら、死刑制度そのものについても考え直すべきでしょう》

 

 全くその通りだと思いました。事件の障害者差別を批判しながら、死刑制度の廃止にまで思考が至らなかったことを恥ずかしく思いました。

  そこまで視野に入れながらの批判でないと、底の浅いものになってしまいます。今回の事件は、図らずもそのことが露呈したしたのではないかとインタビュー記事を見ながら思いました。

 

 「リメンバー7.26神戸アクション」のメッセージは、この問題にきちんと向き合おうとしたものでした。神奈川の障害者団体も、このようなメッセージを出しているのでしょうか?

 

 明日判決が出ます。おそらく死刑の判決です。それはだめだと、今まで以上に言っていかなければいけないと思います。

 

www.kanaloco.jp

 

どんな判決が出ようと、私たちはひよりちゃんたちと一緒に生きていきます。

ひよりちゃんがご飯を食べに来ました。そばにいるだけで幸せな気持ちになります。

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  人を幸せな気持ちにさせる、というのは、すごいチカラだと思います。生産性の価値基準では語れないチカラであり、その人がいることの意味であり、価値です。

 そういうチカラを持った人があちこちにいることが、街の豊かさではないかと思います。

 いつだったかぷかぷかの上映会の感想に、

 「ぷかぷかがあることが街の価値を高めている」

と感想を書いてくれた方がいましたが、ぷかぷかさんたちのチカラをちゃんと見ている方なんだと思いました。

 「街の価値」という言葉が素晴らしいと思います。そういうものをぷかぷかが作りだしている、ということ。

 

 都筑区のグループホーム反対運動では、反対理由の中に

「障害者のグループホームができると土地の価値が下がる」

というのがありましたが、正反対の評価です。

 この差はなんなのか。

 結局のところ、当事者の人たちといい出会いをしているかどうかだと思います。

 私は街の人たちに障がいのある人たちに出会ってほしいと思ってぷかぷかを街の中に作りました。たくさんの人が彼らと出会い、たくさんのファンができました。

「ぷかぷかがあることが街の価値を高めている」

という言葉も、その出会いの中から生まれてきたのだと思います。

 

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 人を幸せな気持ちにさせるような人は、街の宝だと思います。宝は大事にしたいです。

「障害者に税金を使う意味があるのか」

という意見もありますが、それに対しては

「意味があります」

と自信を持って言いましょう。

 そのためには、彼らと一緒に生きる事で私たち自身が豊かになったことを実感することがまず第一です。そのことを外に向かって発信しましょう。街が豊かになったことも。

 さらに、彼らと一緒に生きることで社会を豊かにするものをいっぱい作りましょう。

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 ひよりちゃん、真ん中で頑張っています。

 

 「障害者はいないほうがいい」ではなく、こういう人とはやっぱり一緒に生きていったほうがトク!なのです。

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 やまゆり園事件の判決がもうすぐ出ます。

 どんな判決が出ようと、私たちはひよりちゃんたちと一緒に生きていきます。

「相手からも学ぶ」という双方向の関係を取り戻す

こんな投書がありました。

 

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 数日前、やまゆり園事件の裁判の記事では被告の証言としてやまゆり園での対応が載っていました。

 

 「口調が命令的。人に接するときの口調じゃなかった。」

 「人として扱っていないと思った」

 「食事は流動食で、職員は流し込むというような状況。人の食事というよりは流し込むだけの作業に見えた」

 

 

 相手をしている障がいのある人たちを「見下している」のは、どこの福祉事業所でも同じなんだと思いました。どうしてこういうことになるのか。

 二つに共通しているのは「支援」という上から目線の関係です。相手がいろいろできないからやってあげる、という一方的な関係。

 上から目線の関係は、時には相手から何かを学ぶ、という謙虚さがなく、お互い学び合う、といった双方向の関係にはなりません。いつも一方的。私=「できる人」「やってあげる人」、相手(障がいのある人)=「できない人」「やってもらう人」という関係が固定されています。

 「できない人」といわれている人たちも、よぉくつきあってみると、できることがいっぱいあります。私たちにできないことが、ものすごくできたり、といったこともあります。そういうことを見つけ、お互い成長していくのが、双方向の関係です。

 

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 障がいのある人たちは、確かに、できないことが多いです。でも、一方で、私たち以上にできることも多いのです。だから一緒に生きていると楽しいし、そこから新しいものが次々に生まれるのです。

 要は、そういうものを相手の中に見つける目を持っているかどうかです。

 自分たちの方ができる、という思い込みは、謙虚に相手を見る目を奪います。できないことばかりが目に入って、こいつらどうしようもない、と更に見下していきます。

 

 風通しの悪い、閉鎖空間で相手を見下すことが日常になると、相手を人として見ることができなくなります。

 「殴っていい」

 「人に接するときの口調じゃなかった。」

 「人として扱っていないと思った」

 「人の食事というよりは流し込むだけの作業に見えた」

というのは、まさに相手を人として見ることができなくなっているからだと思います。現場がどんどん荒廃していきます。投書に出てきた福祉事業所も、やまゆり園も、そういった現場なんだと思います。

 

  どうすればいいのか。

 それは一方的にやってあげるのでなく、「相手からも学ぶ」といった双方向の関係を取り戻すことです。謙虚な気持ちで相手を見るのです。そうすれば、障がいのある人たちは、私たちにはない、いいものをいっぱい持っていることがわかります。そんな彼らとおつきあいすると、私たち自身が豊かになります。一緒に生きていったほうがトク!と思えるようになります。

 まさに、障がいのある人たちと一緒に生きていくのです。お互いが学び、豊かになっていく双方向の関係が生まれます。そうすれば、福祉事業所は全く違うものになります。社会を豊かにする価値あるものを創り出すことができます。

 それがやまゆり園事件を超えることだと思います。

 

 

9月5日(土)にこの問題を考える集まりをやります。

www.pukapuka.or.jp

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