ぷかぷか日記

#障がいのある人がいる暮らしも悪くないよ

 相模原障害者殺傷事件で犠牲になった方の中に美帆ちゃんというかわいい女性がいました。名前と写真が公表された方です。

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  19歳でした。美帆ちゃんの名前と写真が公表されたことで、事件の重みをリアルに感じることができるようになり、事件が一層辛くなりました。公判中、朝日新聞横浜版に、犯行当時の様子が詳しく載ったことがありました。その中に美帆ちゃんの名前も載っていて、美帆ちゃんが殺される様子がリアルにわかり、私は読むに耐えませんでした。お母さんのことを思い、朝日新聞に抗議しました。読む人がどんな風に受け止めるか考えなかったのか、と。後日横浜支局の編集責任者から「名前を載せるかどうかは難しい判断でした」というメールが来ましたが、お母さんが名前を公表したのは、あんな風に記事に使われるためではなかったのに、と思いました。

 

 裁判が終わってあらためて思うのは、なんの罪もない美帆さんが、どうして殺されなければならなかったのか、ということです。裁判ではそのことについて何も明らかにならないまま、被告に死刑の判決が出て終わりました。今、マスコミもほとんど話題にしません。事件はどんどん忘れられていきます。

 「美帆さんは殺された」「美帆さんは、今、いない」という重い事実だけが残りました。家族だけがそのやりきれない事実を背負い込んでいます。そのことが私は辛いです。せめて

「美帆ちゃんは、どうして殺されなければならなかったのか」

の問いを、ずっと考え続けようと思っています。それは社会のあり方を問うことであり、社会のなかの自分の生き方を問うことです。お母さんの辛さを自分の辛さとして少しでも感じたいからです。

 

 その延長に、出生前診断の問題があります。

 

 出生前診断で陽生が出た人の9割以上が産まない選択をするそうですが、障がいのある人たちに対する社会の思いがそのまま現れていると思います。9割の人が障がいのある人たちの存在を否定する、という現実です。

 言い方がちょっとストレートですが、生まない選択は、家族に「障害者はいない方がいい」ということだと思います。そんなふうに障害者を否定する社会の雰囲気が、相模原障害者殺傷事件を生んだと私は考えています。決して植松被告の特異性だけが生んだのではありません。だから彼を死刑にしても、障害者を否定する社会の雰囲気は何も変わりません。社会が抱えた問題は、何も解決しないのです。

 

 陽性反応が出て、産まない選択をするのは、多分、障がいのある人たちのこと、よく知らないのだと思います。知らないまま、社会のなかの障がいのある人たちのネガティブなイメージに負けてしまったのだと思います。

 だったら障がいのある人たちのポジティブなイメージを私たちで届けようじゃないかと思うのです。

 「#障がいのある人がいる暮らしも悪くないよ」

 「#障がいのある人がいる暮らしは、楽しいこともいっぱいあるよ」

といった感じの明るいメッセージです。 

 出生前診断で反応が出て、辛い思いをしたり、悩んでいる人が、「あっ、そうなんだ」「そういうこともあるんだ」って、ちょっと気持ちが楽になるといいなと思うのです。

 例えばこんな話です。

ameblo.jp

 関係者がこんな楽しい話を「#障がいのある人がいる暮らしも悪くないよ」「#障がいのある人がいる暮らしは、楽しいこともいっぱいあるよ」をつけて発信すれば、きっと楽になる人がいると思うのです。そしてそういう人が少しずつでも増えていけば、障がいのある人をなかなか受け入れない社会はきっと変わります。

    

 ★下記サイトに美帆さんのお母さんの話が載っています。ぜひ見て下さい。

www.nhk.or.jp

「あなたがいて幸せ」というメッセ−ジ

 ダウン症のある人を知るイベント開催をきっかけに発足した「多様性」をコンセプトに活動するヨコハマプロジェクトという団体があります。そこが『ダウン症のあるヨコハマのくらし』という冊子の製作資金調達のためにクラウドファンディングをやっていたので協力したところ、先日、その本が送ってきました。

 

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 写真が素晴らしい冊子です。写真見ているだけで心がキュンとなります。こんな人たちは街の宝だと私は思っています。そんな風に思う人が増えてくれたら、社会は障がいのある人にとってもない人にとっても、もっと居心地のいいものになると思います。

 そんな風にするにはどうしたらいいのでしょう。やはり彼らの周りにいる人たちが、彼らとはいっしょに生きていった方がいいよ、というメッセージを発信し続けることと、彼らとの出会いの場、彼らとの関係が持続する仕組みを作ることだと思います。

 

 『ダウン症のあるヨコハマのくらし』は、 ダウン症の赤ちゃんが生まれ、子どものこれから先の生活に不安を覚えている人にとっては、子どもの先々が具体例を通してイメージでき、ある程度は役に立つ本だとは思います。

 ある程度、とあえて書いたのは、子どもたちと親御さんが、いずれどこかで向き合うことになる「社会的な生きにくさ」の問題や、社会が持っている「ネガティブな障害者観」の問題に全く触れていないからです。そしてここの問題こそ、ひとりで解決するにはとても困難な問題だからです。(ま、そういうことを目的とした本でないことはわかりますが…。でも、ヨコハマプロジェクトのホームページには「私たちは、障がいのある人もない人も、互いを認め合い、ともに力を発揮できる社会づくりをめざし」なんて書いているわけですから、なんか物足りないのです。)

 障害者は社会に合わせなければ生きていけない、といわれ、社会に合わせる訓練を強いられます。おしゃべりをやめさせなさい、うろうろするのをやめさせなさい、等々。これらは間違ってはいないのですが、障害特性から、それをやめさせることは本人にとってものすごく負担になることも多いです。これが社会的生きにくさの一つです。

 

 すでに何度も書いていますが、ぷかぷかで働いているツジさんはおしゃべりが止まりません。養護学校でも、卒業後働いていた福祉事業所でもおしゃべりをやめさせることを求められ、親子でものすごく苦労してきました。でも、いくら訓練してもツジさんのおしゃべりは止まりませんでした。おしゃべりはツジさんの障害特性であり、ツジさんという人間の表現そのものです。それをやめさせることは、ツジさんという人間を否定することです。

 ぷかぷかのパン屋の店頭でツジさんは毎日しゃべりまくっています。初めてお店に来た人は大抵びっくりします。でも、おしゃべりしながらも、ツジさんはしっかりお客さんを見ていて、トレーに載せたパンをレジに持っていくと、レジよりも速く計算し

「1,230円です」

とか言ったりするので、びっくりします。だんだん慣れてくると、おしゃべりの内容も、すごく魅力あることに気がつき、ツジさんにはたくさんのファンができました。ツジさんのおしゃべりはぷかぷかの売り上げにものすごく貢献しているのです。

 パン屋でツジさんのおしゃべりが聞こえないと、なんだか火が消えたようです。おしゃべりは、ツジさんという人がいることの表現であり、ツジさんの「私はここにいる」という大切なメッセージなのです。

 お母さんはそんな働きぶりを見て、今までやってきたのは「見当違いの努力」だった、といってました。見学に来たダウン症の子どもたちの親の会の人たち10人くらいにその話をしたところ、何人かのお母さんが泣き出してしまいました。多分毎日「見当違いの努力」をしていて、疲れ切っていたのだろうと思います。

 いくら努力しても、変わらないものは変わりません。それよりもちょっと発想を変えれば、親子共々生きることが楽になるのです。ツジさんのお母さんは「見当違いの努力」に気がついたときの「開放感」は未だに忘れられないといいます。

 社会が障がいのある人たちに求めていることが、ほんとうにその人にとっていいことなのかどうか、やっぱり当事者目線でちゃんと検証していかないとだめだと思います。

  子どもたちも親御さんも、どこかでこういった問題に必ず突き当たります。そのとき、どうすればいい、というアドバイスはとても大事です。

 

 もう一つ。親御さんによっては、子どもの障害をなかなか受け入れられない人もいます。出生前診断で陽性になった人の90%以上の方が産まない選択をしています。それくらい障がいのある人たちのネガティブなイメージが社会を覆い尽くしているのだと思います。そんな社会にどんなメッセージを送り届けていけばいいのか。関係者はこの問題にきちんと向き合わないとだめな気がします。

 昨年3月にあったTBSラジオの報道ドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』は相模原障害者殺傷事件を軸に据えたすごく聞き応えのある番組だったのですが、一点、ものすごく違和感を覚えたところがありました。

  最後の方で番組を作った神戸金史さんの書かれた詩が紹介されたのですが、その中にこんなことばがあります。

 「誰もが健常で生きることはできない。誰かが、障害を持って生きていかなければならない。……今、自分が障害を背負っていないのは、誰かがそれを背負ってくれたからだ」という「物語」。

 

   息子よ。
   君は、弟の代わりに、
   同級生の代わりに、
   私の代わりに、
   障害を持って生まれてきた。

 

 現実にこんなことはあり得ないのですが、でも、その「物語」にすがりつかないと子どもの障害を受け入れられなかったのだと思います。

 

 5月の連休に無料でオープンになった『ぼくは海が見たくなりました』という映画にも、似たような『物語』を語る場面がありました。

「障がいのある人たちの生まれてくる確率を仮に1%とした場合、その1%の人たちが障害を引き受けてくれたおかげで99%の人は普通に生きていくことができる。だから99%の人は障害を引き受けてくれた1%の人を邪魔者扱いしないで、感謝して欲しいんだよなぁ」という台詞。

 子どもの障害を受け入れられなくて苦しんでいる親御さんにはちょっと気持ちが楽になるような『物語』だと思います。あの台詞に号泣しました、という親御さんがいました。

 

 この身代わりになってくれたという物語は、結構世の中に浸透しています。何が問題なのかを考えます。

 『物語』は、身代わりになってくれたことへの感謝です。障害を受け入れられない、言い換えれば障害を否定しながら(これは障がいのある相手の否定です)、身代わりになってくれたことに感謝、というのは、なんかやっぱり変だと思うのです。目の前の相手はどうなるんだ、という話です。目の前の相手を見ないで、物語の方を見ているというか…。

 そうじゃなくてやっぱり「生まれてきてくれてありがとう」と相手に向かってちゃんといえる関係を作りたいと思っています。あなたという存在に感謝したい、そんな関係です。そんな関係を作るにはどうしたらいいか、ということ。

 ぷかぷかについていえば、ぷかぷかさんたちのおかげで、ほっこりあたたかな、楽しいお店が運営できています。「ぷかぷかしんぶん」を見れば、彼らがしんぶんの楽しさを作り出していることはすぐにわかります。彼らには感謝しかないです。「あなたにいて欲しい」「あなたが必要」「生まれてきてくれてありがとう」といえる関係がここにあります。

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 身代わりになってくれたことに感謝ではなくて、やっぱり障がいのある人に向かって「生まれてきてくれてありがとう」と、あなたという存在に感謝するような関係こそ大事だと思うのです。そういう関係が構築できるかどうかが私たちに問われていると思います。

 

 

 やまゆり園事件の公判の時、障害者は不幸しか生まないと主張する被告に対し、犠牲になった娘さんのお母さんが

「私は娘がいて幸せでした」

と証言しました。気の重い裁判でしたが、この言葉には救われました。事件で暗くなった社会のなかで、希望の光をともした気がしました。

 重度障害の娘さんに

「あなたがいて幸せでした」

っていえるお母さん、素敵だと思いました。

 

 『ダウン症のあるヨコハマのくらし』の表紙の写真が素晴らしいと思います。

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 彼らにそそぐ家族の優しいまなざしを感じます。冊子のなかの写真もみんなそうです。「ダウン症の子どもがいて幸せ」という思いを感じます。こういう思いこそ、メッセージとして発信して欲しかったと思います。

コロナが過ぎたら、またこの輝きを取り戻したい

『PukaPukaな時間Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』を見ていると、こんな何気ない日常が、今、とても愛おしい。

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笑顔の価値が何倍にもなる。

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 その価値を見落としていた気がする。

 

  こんな文字の一つ一つが愛おしい。

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この寝顔も

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 ぷかぷかさんがいること、彼らが笑顔でいること、字を書いていること、寝ていること、その一つ一つに素晴らしい価値があったことに、今、あらためて気がつく。

 

 こんな舞台もいっしょに作った。『あなたが必要』『あなたにいて欲しい』と素直に思える舞台。

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 大学生とワークショップ

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地域の人たちとワークショップ

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演奏会

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ぷかぷかさんといるとこんな楽しいものが毎日のように生まれます。

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ぷかぷか ドキドキ そわそわ わくわく 

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 彼らと過ごす日々が、こんなにも輝いていたこと。そのことをコロナは教えてくれました。

 コロナが過ぎたら、またこの輝きを取り戻したい。そう思うこの頃です。

 

★『PukaPukaな時間』はぷかぷかオンラインショップで。元気が出ますよ。

shop.pukapuka.or.jp

 

けんいち君が入ってからは三振なし、敵味方なし、チームなしになったの

『街角のパフォーマンス』の続き。30年前、養護学校の素敵な子どもたちに出会い、こんな人たちを養護学校に閉じ込めておくのはもったいない、と学校の外へ連れ出しました。一番おもしろかったのは、武蔵野にある広大な「原っぱ」に出かけたとき。子どもたちが野球をやっていて、知らないうちにけんいち君がその仲間に入っていました。けんいち君は私が担任していた重度障害といわれている子どもです。いっしょに遊んだみさえの報告。あんまり素晴らしいので、全文記載します。

 

 「私たちが野球をしていると、気がついたときにいたというか、あとから考えても、いつ来たのかわかんないけど、けんいち君が入っていて、バットを持ってかまえているので、お兄さんのあきら君や大久保君にゆっくり軽い球を投げてもらい、いっしょに野球をやることにしたんです。

 けんいち君は、最初のうちは球が来ると、じーっと球を見て、打たなかったんです。球の行く方をじっと見ていて、キャッチャーが球をとってからバットを振るのです。

 でもだんだんタイミングが合うようになり、ピッチャーゴロや、しまいにはホームランまで打つのでびっくりしちゃった。

 それから、打ってもホームから動かないで、バットをもったまま、まだ打とうとかまえている。走らないの。

 お兄さんのあきら君や大久保君や私たちで手を引いていっしょに一塁に走っても、三塁に行ってしまったりして、なかなか一塁に行かないんだもん。どうも一塁には行きたくないらしいんです。

 でも、誰かと何回もいっしょに走るうちに、一塁まではなんとか行くようにはなったんだけど、それ以上は2,3塁打を打っても、一塁から先は走らないで、ホームに帰ってしまって、バットをかまえるのです。

 「かして」っていってバットを返してもらおうとしたけど、返してくれないの。誰かがとろうとしてもかしてくれないんです。でも、どういうわけか不思議なことに、私が「かして」というと、かしてくれるのでうれしかったです。

  だから、けんいち君が打ったら、バット持って行っちゃうから、私がけんいち君を追いかけていって、バットをかしてもらい、みんなに渡して順番に打ちました。終わったらまたけんいち君という風に繰り返しました。

 けんいち君はすごく楽しそうに見えたよ。最初はうれしいのか楽しいのかわからない顔だったけど、ホームランを打ち始めてから、いつもニコニコしていた。

 一緒に野球をしたのは7人。敵、味方なし、チームなしの変な野球。アウトなし、打てるまでバット振れる。ほんとうはね、けんいち君が入るまでスコアつけていたんだけど、けんいち君が入ってからは三振なし、敵味方なし、チームなしになったの。一年生のちびっ子たちには都合がよかったみたい。負けてたからね。」

 

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 初めてけんいち君と出会いながら、いっしょに野球やろうと、子どもたちがいろいろ工夫したところがいいなぁ、と思います。こうやって工夫することで、子どもたちは成長します。

 

 2020年3月18日重度障害児の地元小学校の就学希望を認めないという判決が出ました。

重度障害児の地元小通学認めず 地裁判決「裁量権の範囲」 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞

 受け入れる側の子どもたちの成長の機会が大人の都合で奪われました。素晴らしい機会だったのに、もったいないです。大人たちの想像力のなさを思います。

 

 原っぱで養護学校の子どもたちとのおつきあいが楽しくなり、子どもたちの一人はその後支援学校の教員になったという話を聞きました。すごくいい体験だったんだなと思います。 

関係を作り出すのは言葉ではないのです

「7日間ブックカバーチャレンジ」で『街角のパフォーマンス』のこと書いたのですが、なんか書き足りない感じがしたので、もう少し書きます。

 目次を見て欲しい。

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 養護学校の生徒、子どもたちといっしょに何かやることが楽しくてしょうがない、という感じが目次を見ただけでビリビリ伝わってきます。そういう気持ちでやっていたから、小難しい話抜きに、彼らといっしょに楽しいことをやる地域の仲間がいっぱいでき、今もって超えられないほどの素敵な関係がたくさんできました。

 

  「あおぞら市」は生活クラブのお店の駐車場で、月一回開かれていた市。そこに養護学校の生徒、子どもたちと一緒に手打ちうどんのお店を出しました。手打ちうどんがおいしいことはもちろんあったのですが、養護学校の生徒、子どもたちがいることで、その場がとにかく楽しくなりました。何よりもみんながいつもより自由になれました。彼らがいると、どうしてそうなるんだろうね、という話をよくしたことを覚えています。

 「彼らといっしょにやると楽しいね」「彼らは社会にいた方がいいね」「いっしょに生きていった方がいいね」ということがたくさんの人たちと自然に共有できた「あおぞら市」でした。

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 あおぞら市で養護学校の生徒、地域の子ども、大人たちが一緒になって即興で人形劇をやったことがあります。人形作りからお話作り、そして発表まで、その場でやってしまいました。こんなことができる関係が、今、地域にあるでしょうか?

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 演劇ワークショップのなかで養護学校の生徒が「森は生きている」を歌ったことがありました。歌がしんしんとしみて、地域の人たちもワークショップの進行役で来ていた黒テントのメンバーたちも、涙を流していました。

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 演劇ワークショップではこういった思いも寄らない素敵な出会いがたくさんあって、いつの間にか、養護学校の生徒、子どもたちに向かって

 「あなたにいて欲しい」「あなたが必要」

と自然に思える関係ができていました。「共に生きる社会」だの「共生社会」だのといった言葉すらなかった時代です。 

 そんな風に思える関係が、30年後の今、まわりにあるのかどうか考えてみて欲しい。

 「共に生きる社会」だの「共生社会」だのといった言葉は溢れていますが、「あなたにいて欲しい」「あなたが必要」と自然に思える関係がいったいどれだけあるでしょうか?

 それを思えば、30年前の演劇ワークショップやあおぞら市がいかにすごい関係を生み出す試みであったかがわかります。

 関係を作り出すのは言葉ではないのです。

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 ★『街角のパフォーマンス』は絶版ですが、オンデマンドで製作し、現在ぷかぷかのオンラインショップで販売中です。オンデマンドで作ったので、若干高めですが、値段の価値はあります。

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「好き!」という関係は、社会を変えます。

神奈川新聞、やまゆり園事件考で成田記者が「分ける社会」について、とてもいい記事を書いています。5月6日「共生への道しるべ(下) 出会いからはじめよう」

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 「分ける社会」を変えていくために何が求められているのか。それは共に生きている子どもたちが教えてくれているように、障害者を「理解」や「支援」の対象として見るのではなく、対等な「仲間」として付き合い、「私とあなた」という二人称の関係性を紡いでいくことだ。

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 私は障がいのある人たちに惚れ込み、

「いっしょに生きていかなきゃソン!」

と思い、ぷかぷかを立ち上げました。「障がいのある人たちとは一緒に生きていった方がいい」「その方がトク!」というメッセージを毎日のように発信しました。メッセージに共感してくれた人が

「あっ、行ってみようかな」

って、ぷかぷかに買い物に来たり、遊びに来ました。街の人とぷかぷかさんとのたくさんの出会いが生まれました。出会うことで、いっしょに生きていった方がいいことを実感します。

 「分ける社会」が「いっしょに生きる社会」に少しずつ変わってきています。

 そんな風に変わる大事なポイントは「あっ、行ってみようかな」って思えるような魅力あるメッセージの発信だと思います。「支援」という上から目線、相手をマイナス評価するところから始まる関係では、障がいのある人たちの魅力なんて伝えられません。彼らの魅力が伝えられなければ、いっしょに生きていこうと思えるような関係は生まれません。

 「分ける社会」が変わるかどうかは、彼らに近いところにいる人たちが、彼らの魅力をどこまで伝えられるかにかかっているように思います。そのためには、彼らをマイナス評価するのではなく、彼らの魅力に私たち自身が気がつくことです。そしてそこにプラスの価値を見つけることです。

    この字を「下手くそな字」と見るか、「魅力ある字」と見るか

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 事件後、誰にもある「内なる優生思想」という差別意識と向き合う必要性が語られた。だが、自らの内面にいくら向き合ったところで、差別が生まれる状況が変わるわけではない。「分ける社会」を変えていくには、当事者と出会うことからしか始まらないように思う。

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 事件の後「内なる優生思想」という言葉がいっときはやりましたが、社会は何も変わりません。やはり記事にあるように「当事者と出会うことからしか始まらない」のです。

 ぷかぷかは、街の人たちに、

「こんな素敵な人たちとは出会わなきゃソンですよ」

みたいな思いで街の中にお店をつくりました。結果、街の人たちと彼らのいい出会いがたくさん生まれました。出会いは

「ぷかぷかさんが好き!」

というファンをたくさんつくりました。

 「何かやってあげる」関係ではなく、どこまでもフラットにおつきあいできる関係がここにはあります。

 「好き!」という関係は、社会を変えます。

 「分ける社会」が、ここでは確実に変わりつつあります。

 

 写真右側の人はぷかぷかさんに惚れ込み、ワークショップに参加するために栃木から新幹線に乗って来ました。「好き!」は社会を変えるのです。

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  そうした出会いを重ねて「分ける社会」をじわじわと揺り動かし、誰もが地域で学び、暮らすことができる社会に変えていこう。重度障害者が当たり前に、私やあなたのそばにいる街に変えていこう。その先には、多様な存在が響き合う豊かで面白い世界が待っている予感がしている。

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 「重度障害者が当たり前に、私やあなたのそばにいる街に変えていこう。」と記事にありますが、まさにそれをぷかぷかはやります。

www.pukapuka.or.jp

 私は時々行って畑仕事や田んぼの仕事をいっしょにやる予定です。どろんこになる田植えはとても楽しみです。

 それと週一回給食をみんなで作るので、「テキトー給食」をやろうって提案しています。ほんま、大丈夫かいな、と思っている人が多いのですが、ま、今に見てろって感じで楽しい給食作りをいっしょにやろうと思っています。乞うご期待です。

 

 

「共生への道しるべ(下) 出会いからはじめよう」

https://www.kanaloco.jp/article/entry-347624.html

 

地域の人たちが、彼らとおつきあいしてみようかなって思うような

 神奈川新聞「共生への道しるべ」(5月5日)はやまゆり園事件をめぐって地域社会の問題を考えるとてもいい記事でした。

https://www.kanaloco.jp/article/entry-347062.html

 

 ああ、いい記事だった、で終わったのではやまゆり園事件を生み出した社会は何も変わりません。やっぱり私達はそれでどうするのかを考えないと、と思うのです。

 「『(障害者が)うるさいから、あそこの家に早く行ってくれ』と警察に通報する住民もいた。嫌がらせの電話を受けることもあった」

 と記事にありましたが、悲しいですね。こういう地域社会をどうやったら変えられるのか、ということです。

 

 ぷかぷかも創設当初、店頭でお客さんに呼びかけていた

「おいしいパン入りませんか?」

という声がうるさい!と苦情の電話が入ったり、同じところを行ったり来たりする人がいると

「メシがまずくなるからやめてくれ」

といわれたり、ま、とにかく散々でした。

 それでもぷかぷかさんがいることで生まれる柔らかな空気に気がつく人がだんだん増えて、いろんな苦情は少しずつなくなっていきました。

 ぷかぷか三軒長屋ができる時、

「障害者施設がアメーバのように広がっていくのは不気味だ」

などという人もいました。ぷかぷかが始まって3年経ってもそんな風にしか見えない人がいることにがっかりしました。

 一方で上映会をやった時の感想に

「ぷかぷかがあることで霧ヶ丘の街の価値を上げている」

と書いてくれた人もいて(ぷかぷか9年目)、ぷかぷかの周りの地域は少しずついい方向に変わってきています。

 「障がいのある人たちとは一緒に生きていったほうがいい」「そのほうがトク!」

とひたすら言い続け、そのことを肌で感じられる関係を地道に作ってきたおかげだと思います。

 私たちが動けば、地域社会が変わるのです。地域社会が変われば、障がいのある人たちだけでなく、私達みんなが気持ちよく暮らせます。

 

 だから、関係者の発信、様々な活動がすごく大事です。そこがやはり今まで足りなかったのではないかと、新聞の記事見ながら改めて思います。

 地域の人たちが、彼らとおつきあいしてみようかなって思うようなメッセージの発信、イベントの企画です。それを私達自身が楽しみながらやること。楽しくないと続きません。

 こういったことと、彼らとお互い

「いい1日だったね」

って言える日々を積み重ねること。それがやまゆり園事件を超える社会を作っていくのだと思います。

 

 神奈川新聞があれだけ頑張って記事を書いてくれたのだから、地域を作っている私たちも動かないと、と思うのです。

映画『ぼくはうみがみたくなりました』を、ぼくは上映したくなりました。

 映画『ぼくはうみがみたくなりました』を見ました。(ゴールデンウィーク中、YouTubeで無料公開しています)

 自閉症の青年の振る舞いをあたたかい目線で語る心温まる映画でした。たまたま自閉症の青年淳一君を車に乗せ、いっしょに短い旅をすることになったドライバーの明日美さんの変わっていく様子がすごくよかったですね。自閉症の人とおつきあいすることの意味が、とてもよく伝わってきます。

 自閉症の人とお付き合いすると、なんか楽しいよ、というメッセージ。「共に生きる」とかじゃない、普段着のメッセージ。だから、心にしっくり響きます。こういうメッセ−ジこそが、社会をあたたかいものに変えていきます。

 

 一点だけ思うところがありました。自閉症の青年淳一君と明日美さん、昔淳一君を保育園で預かった元園長先生、その奥さんが宿に泊まり、食事の際、淳一君がほかのお客さんの子どものミニカーを取り上げて見つめる場面がありました。なんの問題もなくすぐに返したのですが、子どものお父さんは

「どうしてこんな人がここに泊まっているんだ。こんな人は病院に入れておけばいい。その方が幸せだ」

などといいます。こういう人は社会にいっぱいいますね。

 その場では返す言葉もなく、引き下がるのですが、その夜、園長先生が明日美さんに話しかけます。

 「障がいのある人たちの生まれてくる確率を仮に1%とした場合、その1%の人たちが障害を引き受けてくれたおかげで99%の人は普通に生きていくことができる。だから99%の人は障害を引き受けてくれた1%の人を邪魔者扱いしないで、感謝して欲しいんだよなぁ」という台詞がありました。

 

 障がいのある人たちが存在する理由を説明するいわばファンタジーです。子どもの障害をどうしても受け入れられない親御さんにとっては、気持ちが楽になるお話です。映画の感想に、あの場面で涙が出ました、と感想を書いていた障害のある子どものお父さんがいましたが、子どもの障害をうまく受け止められなくて苦労していたのだと思います。

 気持ちが楽になる方がいれば、それはそれでいいのですが、「こんな人は病院に入れておけばいい」といった言葉に象徴されるような、障がいのある人たちを社会から排除してしまう考えが蔓延しているこの社会の問題は、気持ちが楽になるだけでは解決しません。

 何よりも障害当事者のありのままを受け入れるのではなく、ファンタジーの方を受け入れるのであれば、当事者との関係で豊かなものが生まれる、といったことがなくなります。これはすごくもったいないことだと思います。いや何よりも当事者に対して失礼です。

 

 社会の問題について考えます。障がいのある人たちを社会から排除してしまうと、社会が受け入れる人の幅が狭くなります。お互いが息苦しい、窮屈な社会になっていきます。

 障がいのある人たちは生産性が低いと社会から排除されがちですが、生産性だけで人を評価する社会は、なんだか疲れます。何よりも人間の大事なものを見失います。生産性以上に大事なものを人間はいっぱい持っているからです。

 『ぼくはうみがみたくなりました』はそのことをとてもうまく伝えてくれます。 

 淳一君のような人がいるからこそ、社会がゆるっとし、ほっとできる空間ができます。映画があたたかいのは、それを映像としてうまく表現しているからだと思います。

 もちろん淳一君と初めて出会った人はちょっとびっくりしたり、戸惑ったりすることもあります。船が揺れた弾みに、大事にしていたミニカーを海に落としてしまい、淳一君はパニックになります。大声で叫び、頭を手すりにガンガンぶっつけます。周りの人たちはびっくりします。園長先生が飛び出してきて、淳一君をなだめます。「大丈夫、大丈夫」って。びっくりしたまわりの人たちにも「大丈夫、ちょっとパニック起こしただけです」って。

 まわりの人たちのびっくりやら戸惑いやらの経験は、人間の幅を豊かに広げてくれます。ああ、こういう人もいるんだ、でも大丈夫なんだ、と。そういった経験が積み重なって、社会は少しずつ丸くなっていきます。とげとげした社会が丸くなるのです。明日美さんの変わり様は、それをうまく象徴していると思いました。

 そして映画全体に感じられるあたたかさこそが、障がいのある人といっしょに生きていくことで生まれる豊かさです。ありのままの淳一君を受け入れることで生まれる豊かさです。

 

 そういうものがストレートに伝わってくる映画『ぼくはうみがみたくなりました』を、ぼくは自主上映したくなりました。コロナウィルス収まったらぜひやりたいと思っています。

 

 ★『ぼくはうみがみたくなりました』はゴールデンウィーク中無料で公開しています。

bokuumi.com

                                

明日。5月1日。 でんぱたが生まれます。

虔十公園林

 

宮沢賢治の「虔十公園林」という童話をご存知ですか。

わたしが「虔十公園林」のことを知ったのは、今から20年程前のことです。

この3月までわたしは障がいのある方の通所施設で働いていましたが、

そこで働きはじめて間もない頃に、先輩職員がこんな童話があるよと教えてくれたのでした。

その時から、わたしはこの「虔十公園林」をずっと傍らに置くことで、この仕事を続けて

いこうとしている自分の支えとしてきました。

 

去年の夏前に、わたしは「虔十公園林」の主人公「虔十」への想いのようなものを、

自分なりに書いてみました。

単純な短い文にすぎないのですが、これは、長く働いてきたその施設を辞めることと

「でんぱた」のような場所をつくろうと心に決めた時に、

自然に「虔十」のことが思い浮かんできてその想いを書いたものです。

 

宮沢賢治の「虔十公園林」の主人公の虔十は、今で言う知的障がい者。

仲間に馬鹿にされ笑われることがあっても、真っ直ぐに暮らし生きている。 

やがて、虔十は病に倒れていなくなるが、彼が植えた杉林は残る。

そして、後の人々は、虔十の人柄と働きの意味について、次のように語る。

「そこらの畑や田はずんずん潰れて家がたちました。いつかすっかり町になってしまったのです。その中に虔十の林だけはどう云ふわけかそのまゝ残って居りました。」

「その虔十といふ人は少し足りないと私らは思ってゐたのです。いつでもはあはあ笑ってゐる人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見てゐたのです。この杉もみんなその人が植ゑたのださうです。あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。」、

「そして林は虔十の居た時の通り雨が降ってはすき徹る冷たい雫をみじかい草にポタリポタリと落しお日さまが輝いては新らしい奇麗な空気をさはやかにはき出すのでした。」。

もしかしたら、わたしたちが生きているこの時代

人の意識や社会の考えは、

虔十の生きていた時代と大して変わらないのかもしれない。

「笑われたり」、「馬鹿にされたり」、「黙って撲りつけられたり」。

だからこそ、

「たれがかしこくたれが賢くないかはわからない」ということを、

何らかのやり方で、

しめしあらわしていくことが必要と考える。

わたしたちは、

そのしめし方あらわし方を、

虔十のやり方にならっていきたいと思う。

 

2020年5/1。わたしたちぷかぷかの新しい生活介護事業所「でんぱた」がスタートします。

5名のメンバーさんがそこで新たな毎日をスタートします。


「でんぱた」は、晴耕雨読。

 晴れたら野良しごと。

 雨が降ったらのんびり過ごしたり手仕事やアート。

 

「でんぱた」では田んぼや畑しごと、室内での手仕事やアートを

メンバーさんと一緒にやっていきます。

新しい事業所です。皆で力を合わせて0から創っていきます。

ちょうど、虔十と虔十の兄が杉の苗木を1本1本植えていったように。

わたしたちも虔十兄弟にならっていきたいと思っています。

 

そして後々、虔十の杉林は子共たちの集まる美しい公園林となったように...

 

「あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。」

皆さま。大切な何かをみつけに「でんぱた」に是非いらしてください。

 

みんなが集まる虔十公園林のように。

 

今後の街のデザインの視線を豊かにするはず

 ぷかぷかのお店はぷかぷかさんたちが働いていることで、ほかのお店にはない価値を生み出しています。楽しい、心温まる雰囲気、ほっと一息つける、等々です。

 障がいのある人が働くことが、ただそれだけで、そこに新しい価値を生み出すということ、それはぷかぷかをやっていくなかで気がついたことでした。彼らが働いていることはお店だけでなく、街の価値をも上げているということを街の住民の方から教えてもらいました。

 昨年8月のぷかぷか上映会の時の感想です。

 《 4年前に霧ヶ丘に引っ越してきました。毎朝、ぷかぷかのパンを食べています。娘は保育園でもぷかぷかのパンを食べています。この街にぷかぷかのパン屋があることが、この街の価値を何倍にも上げています。映画を見て、それをますます感じました。霧ヶ丘の街が、ぷかぷかが、ますます好きになりました。》

 「霧が丘の街がますます好きになりました」とありますが、なんともうれしい感想です。ぷかぷかさんたちの活動が、そんな風に思う人を作り出しているって、なんかすごいなと思います。

 

 昨年見学に来られた大阪大学で都市のデザインを研究している先生は、街の中に福祉事業所があることで緩やかな流れが生まれる、とおっしゃっていましたが、霧が丘に引っ越されてきた方は、その緩やかな流れを日々の暮らしのなかで感じたのだと思います。その緩やかな流れこそ、ぷかぷかがあることで生まれた街の価値です。

 穏やかな流れは居心地の良さを生みます。街にとってはとても大事な要素です。

 障がいのある人たちといっしょに生きていく、というのは、こういうものを生み出すのだとあらためて思います。

 

 街の価値を上げているというのは、街の所有者であるUR都市機構にとってもうれしい話だと思います。街の設計当初にはなかった価値です。ぷかぷかさんたちが活動することで生まれた街の新しい価値です。

 

 ぷかぷかは UR都市機構の団地の商店街に4軒もお店を借りていて、月々50万円ほどの家賃を払っています。これが貧乏なぷかぷかにとっては大変な負担で、経営を圧迫するほどになっています。これだけ街の価値を上げているので少し家賃をまけてくれないかと、昨日URまで行って話をしてきました。

 思いのほか話をよく聞いてくれました。参考資料として『ぷかぷかな物語』『pukapukaな時間Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』も持って行きました。

 「障害者施設ということで割引を検討してみます」

という話が出たので、そうではなくて、ぷかぷかの活動が街の価値を上げている、ということをもっと評価し、検討して欲しいことをしつこく言ってきました。

 URはあちこちで街のデザインをしています。そうであるなら、今回の霧が丘の街の価値について検討することは、今後の街のデザインの視線を豊かにするはずです。大阪大学の都市デザインの先生が言っていたように、街に福祉施設があると流れが緩やかになる、といった視線。ぷかぷかとの今回の話し合いで出てきた「障がいのある人たちの活動が街の価値を上げている」といった評価は、URの人たちにとっては今まで考えもしなかったことだろうと思います。だからこそ検討する価値があると思います。

 ぷかぷかが霧が丘にあることで「霧が丘の街がますます好きになりました」という人が現れたということは、とても大きな意味を持っています。そのことを街をデザインする視点で考えて欲しいと思うのです。みんなが暮らしやすい街、居心地のいい街を作る上で何が大事なのかが見えてくるはずです。

 私の話を聞くだけでなく、ぷかぷかさんたちが働いている様子をぜひ見に来て欲しいのですが、コロナウィルスのこともあってそれが難しいのがなんとも歯がゆいです。

 資料としておいてきた『ぷかぷかな物語』『pukapukaな時間Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』にぜひ頑張って欲しいなと思いながら帰ってきました。 

 

 この人がこうやって働いていることが街を豊かにする。

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