でんぱたが始まり、陶芸と給食作りで関わっていますが、いろいろ思うのは、今のぷかぷかと同じように、メンバーさんとスタッフが一緒に「でんぱた」を作っているな、ということです。
毎日やることは決めていても、最終的にはメンバーさんの気持ちでやるかやらないかを決めています。例えば給食作りは一応係を決めているのですが、その日になって「今日はやりたくない」と思う人がいれば、そんなときは畑仕事に行ってもらいます。
障がいが重いからスタッフの指示どおりに動くのが当たり前、というのではなく、あくまで決めるのは本人です。本人に気持ちよく働いてもらい、いっしょにいい一日を作ることを大切にする。その積み重ねが「でんぱた」を作っています。
陶芸はいっしょに作品を作りました。
一人で集中して作る人もいました。
そうやってできた作品
焼き上がった作品が「でんぱた」の玄関を飾りました。
こうやって彼らと一緒に「でんぱた」を作っていきます。
生協の店頭市に出した「なのはな村」(宮崎県都城市)のお店。
これがFacebookに載っていたので、
「相変わらずいいもの売ってますね」
と書き込んだら、
「いいものだから、と、売れるとは限らないのです」
と、なのはな村の藤崎さん。
まぁ、そうですね。それが現状なんだと思います。
ぷかぷかのパンも、最初の頃はほんとうに売れませんでした。国産小麦、天然酵母でおいしいパンを作ればぜったいに売れる、と思っていたのですが、それが思ったほど売れないので、がっかりしました。こんなにおいしいパンがどうして売れないのかって。
でも売り続けるしかないというか、自分を信じるしかなかったですね。一人でも「おいしい」って思う人がいれば、そこから時間はかかっても、その「おいしい」がきっとまわりに広がっていく、と思っていました。
ぷかぷかは
「障がいのある人たちとは一緒に生きていった方がいいよ」
のメッセージを発信するところから始まりました。障がいのある人たちはなんとなくいや、近寄りたくない、というマイナス評価が蔓延する中でのスタートでしたので、困難はある程度予想はしていました。
「いっしょに生きていった方がいい」
なんて言葉は、
「え?どうして?」
と受け止める人がほとんどだったと思います。
私が「一緒に生きていった方がいい」「その方がトク!」と思ったのは彼らとの出会いがあったからです。ですから、彼らといい出会いをすれば、きっと思いは伝わると思っていました。
お店で彼らと出会う人たちが少しずつ増え、「ぷかぷかさんが好き!」という人たちが増えてきました。パンのおいしさに出会う人も少しずつ増えてきました。
パンのおいしさとぷかぷかさんたちの魅力が重なって、今、たくさんのファンの方たちが、ぷかぷかを支えてくれています。本当にありがたいことだと思っています。
自分を信じること、そして続けること、それがすごく大事だとあらためて思いました。
7月25日(土)に予定していた「ぷかぷか上映会」と8月からスタートし、6ヶ月かけて芝居を作る第7期演劇ワークショップは、コロナの影響で残念ながら中止にします。
相模原障害者殺傷事件の裁判も終わり、事件のことが話題になることはほとんどありません。でも、あれだけの事件がありながら、やまゆり園も社会も何も変わっていません。だからこそ、いろんな機会に事件のことを話題にしないと、社会はますますだめになる気がしています。
一昨年、昨年に引き続き、今年もぷかぷかの映画を手がかりに事件のことを話題にする予定でした。堅い、重い話ではなく、時折笑い声が響いたりする楽しい上映会です。
昨年の上映会の雰囲気を現代書館の若い編集者がうまく表現してくれました。ぷかぷかがどうやって事件を超えようとしているかがよくわかります。
今回は6月末に完成予定の第6期演劇ワークショップの記録映画『どんぐりと山猫 ぷかぷか版』と、重度障害の子どもと一緒にやまゆり園裁判を傍聴した土屋さんのドキュメンタリー映像(クローズアップ現代で放送されたものの短縮版)の2本を上映し、土屋さんを取材した若い記者とタカサキで、ぷかぷかさんといっしょに生きる意味を事件と絡ませながら語る予定でした。記者は最近ぷかぷかとのおつきあいが始まり、言葉ではうまく言い表せないものを感じたとおっしゃっていたので、新鮮な感覚で事件とぷかぷかを語ってくれると期待していました。
記者を通して土屋さんにもそうま君と一緒に参加していただければ、裁判傍聴の貴重な話も伺えるかなと思っていました。
300人の会場を100人にするとか、プログラムを短縮するとか(昨年が午前と午後の2部ありましたが、今年は午後のみ)いろいろ考えたのですが、コロナの影響で来られない人も多いと考え、結局上映会は中止することにしました。
ただ、せっかく作った映画がもったいないので、その日限定でYouTubeで映像を流す予定です。詳しくはまた後日お知らせします。
演劇ワークショップの記録映画は、ぷかぷかさんと地域の人たちが悪戦苦闘しながら6ヶ月かけて芝居を作った時の記録です。できあがった芝居は決して上出来とはいえなくて、昨年の作品の上映会では「シュールでわかりにくい」といった意見も出ました。
それでも私は見て欲しいと思うのです。
下手ですが、みんなで、精一杯、心を込めた描いたものです。
私は、ここに描いた空を、湖を、木々を愛していると、きっぱりと思っています。
あの6ヶ月、私たちがぷかぷかさん達とどのように生き、何を作り出したのか、を見て欲しいのです。
舞台での発表が終わった直後、参加した地域のおじさんが息を切らしながら「すごかった…ほんとうにすごかった…」と言葉少なに語る場面があります。ぷかぷかさん達とどんな出会いがあったのか、この途切れ途切れの言葉がすべてを語っています。
8月から始まる演劇ワークショップ、 ヨコハマアートサイトに出した助成金申請は今年も満額回答でした。
選考委員会の評価
《福祉施設による地域根ざした活動であることを評価します。実現性の高さ、時事性の捉え方が明確であることから、満額採択とします。感染症対策を十分に行うことを採択条件とします。》
今年は120万円の満額回答だったので、なんとしてもやりたかったのですが、コロナの影響で残念ながら中止にします。ソーシャルディスタンスを考えながらの演劇ワークショップなんてちょっと考えられません。
1年後、こういったことが堂々とできる状態になったら再開します。助成金は今年の満額回答120万円は、もったいないですが、そのまま返し、来年また改めて申請し直しです。助成期間5年を超えますので、審査が厳しくなると思います。チャレンジし甲斐があります。
演劇ワークショップは障がいのある人もない人も、みんなが表現活動を通して元気になれる場です。みんなで楽しみながら新しい作品を作ります。障がいのある人たちが一緒だからこそできる作品ができあがります。それは今までにない新しい文化と言っていいほどの作品です。
演劇ワークショップがいいのは、一緒にワークショップをやっている障がいのある人たちに対して、「あなたが必要」「あなたにいて欲しい」と素直に思える関係ができることです。何も言わなくても、そういった関係が自然にできるのです。
そういった関係で作品を作るので、できあがった作品は、「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいね」って素直に思えるものになります。
相模原障害者殺傷事件は「障害者はいない方がいい」というメッセージを社会にばらまきました。悲しいことに、それに賛同する声がたくさんありました。それに対し、「それは違う」「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいい」「その方が社会が豊かになる」というメッセージを出し続けないと社会はほんとうにだめになっていくと思っています。
演劇ワークショップは、そういったメッセージを体をはって、楽しい雰囲気の中で表現します。ぷかぷかのまわりの社会が、確実に変わりつつあります。
ですから1年間休みにするというのは、いろんな意味でほんとうに残念です。でも、演劇ワークショップはぜったいに絶やさないようにするつもりです。
来年8月、コロナが収まっていたら、また楽しいワークショップ、一緒にはじめましょう。
この絵、スタッフのおくやまさんだそうです。
おくやまさん、宝物のように大事に大事にしていました。ぷかぷかさんの描いた絵が宝物になるって、すごくいいなと思います。
障害者、といって見下してしまうのではなく、その人が描いたものを素直に
「素晴らしい!」
といい、宝物のように大事にする。絵のチカラがこんな関係を作ります。
彼らといっしょに生きていると、こんな宝物がいっぱい生まれます。やっぱりいっしょに生きていった方がトク!です。
宝物を描いたイクミン、今日は頭がかっこいい! お母さんが刈ったそうです。
今日からお店再開。久しぶりにみんなと会って、ただそれだけでうれしい。
久しぶりに会ったリエさんはいつもとおんなじ話題でしたが、おんなじ話をしていても今日は格別にうれしい。心も体もゆるゆるになります。
リエさん「また今日、テレビで漫画ばっかり見るから」
タカサキ「漫画ばっかり見てると頭がパーになるよ」
リエさん「パーになるの?」
タカサキ「そう、タカサキみたいにパーになるよ、いいの?」
リエさん「それはいや」
タカサキ「だからニュースも見た方がいいよ」
リエさん「報道ステーションとか?」
タカサキ「そう、今日はそれを見た方がいいよ」
他愛ないこんなやりとりがすごく楽しい。話をしているだけでぐんぐん元気になります。彼らに支えられていることがよくわかります。
先週まだ休み中にNHKがやってきて、ぷかぷかさんがいないことでぷかぷかさんが街にいることの意味がよりわかったんじゃないでしょうか、と取材に来ました。たまたま通りかかった80歳のおばあさんは、
「やっぱり、いないと、すごく寂しいですよ。みんなかわいい孫みたいな存在ですから」
かわいい孫みたいな感じで受け止めてくれていることがうれしかったですね。上から目線で何かやってあげる、とかではなくて、ただただかわいい孫のようです、というフラットな視線がいいですね。
「道で会っても必ず挨拶してくれて、うれしいです。道路を隔てても、私を見つけると大きな声で挨拶してくれます」
おばあさんは一人暮らしだそうで、だから街で会って声をかけられることが余計にうれしいようでした。
ぷかぷかさんたちはそうやって地域のお年寄りを支えているんだと思いました。偉いなぁ、お年寄りに声もかけない私なんかより、ずっと偉いです。
彼らは《街の宝》です。
★NHKは明日も取材に来るようなので、多分どこかで放送されるのではないかと思います。日にち、時間などがわかりましたらまたお知らせします。
でんぱたがスタートして1ヶ月ですね。
メンバーさんもスタッフも、これまで違う場所で生活や活動をしてきたわけですから、もちろん、お互いに相手のことをよくわからない。そんななか、一緒に毎日を過ごすこととなり、ようやく相手のことをなんとなくわかってきたのかな。そんな1ヶ月だったのではないでしょうか。
5/7仕事初日。メンバーの皆さん農作業ビギナーということで、何をどこまでやってもらうのかは、畑に出て皆さんの働きぶりを見て考えようと思っていました。
ですが、なんと初日から耕運機を操作してもらうことができたのです。そして、耕運機のリコイルスターター(プーリーに巻かれたローブを引っ張りエンジンを始動する)を、何回も何回も引っ張ってもエンジンがかからず、それでも諦めないメンバーさんの姿がありました。
初日、帽子を被りたくない、軍手を着けたくないメンバーさんがいました。でも、帽子と軍手は安全健康を守るためのものですから、スタッフも粘り強く伝えました。
そしてメンバーさん。次の日からは、自分でしっかり帽子を被っていました。そして数日後には、何も言わなくても軍手を着けて仕事をする姿がありました。
軍手を着ける。シャベルで穴を掘る。手で草を引っ張って抜く。手のひらや指で苗に土を被せる。簡単なことのように思いがちですが、すべてはそこに気持ちが働くことで、はじめてできることなのだと思います。
当たり前のことですが、メンバーさん一人ひとりの気持ちや想いを大切にしていきたいと思っています。
野良しごとや他の仕事やでんぱたでの過ごしのなかで、メンバーさんが気持ちや想いの表し方を見つけたり、自分だけではなく相手の気持ちや想いを大切にすることを経験したり。でんぱたを、そんな経験をたくさんしていけるような場所としていきたいです。
重度障害障害者に税金を使うのはもったいない、とやまゆり園事件の植松死刑囚はいい、それに同感する社会があります。
重度障害者にお金を使うのはほんとうにもったいないことなのか。そこを考えていくことは、これからの社会のありようを考えることです。
もったいないかどうかを生産性という視点だけで考えると辛くなります。でも、生産性を離れ、違う視点でこの問題を見直していくと、新しい別の価値が見えてきます。
2月のクローズアップ現代で重度障害の子どもと一緒にやまゆり園裁判を傍聴した土屋さんが紹介されていましたが、その番組の短縮版にちょっと感動的な場面がありました。
重度障害のそうま君の誕生日。バースディケーキを前に「そうま、自分でふーしてみて ふー」とお父さんが言います。そうま君は自発呼吸は今後も無理だと医者からいわれています。でも、そうま君はお父さんの声を聞いて舌をそっと突き出し、ふーしようとします。兄弟たちの笑い声が重なって感動的な場面でした。
そうま君がいることで生まれた素敵なひとときです。それを幼い兄弟たちも含めて家族みんなで楽しんでいます。子どもたちの笑い声がすごくいいです。
そうま君がいることで生まれるこういう時間こそ大事にしたいと思うのです。こういう時間は家族を、そして社会を豊かにします。生産性では計れない価値です。
それがそうま君がいることの価値です。そうま君が何かを生み出すかどうかではなく、そうま君がいること、そのこと自体に価値がある、ということです。こういう価値を社会のなかでもっともっと共有できれば、重度障害の人に限らず、すべての人にとって生きることが楽になります。
重度障害の人たちにお金を使う、というのは、そうすることで生まれる豊かな時間を大事にするためです。生産性では計れない価値を大事にするためです。その価値は私たち自身の生きることを楽にし、社会を豊かにします。
生産性では計れない人間の価値を最初に教えてくれたのは、養護学校で出会った重度障害の子どもたちでした。あれができないこれができない子どもたちが、何かができるとかできないとかの価値観では計れない人間の価値を身をもって教えてくれたのです。そんな価値を知ったことが、今のぷかぷか設立につながっています。そしてぷかぷかが今、社会のなかで果たしている役割を考えると、彼らが教えてくれた価値の素晴らしさをあらためて思うのです。
下に添付したのは、重度障害のそうま君と一緒に裁判を傍聴した土屋さんを通して、事件の意味を探った素晴らしい記事です。
話を大きく広げることなく、そうま君とお父さんの関係を通して事件を見ていくところがいいなと思いました。事件がとても身近な問題として見えてきます。
何よりもお父さんが裁判の傍聴を通して気持ちが楽になった、というところがいいですね。
記事の最後に土屋さんの言葉がありました。「この子と一緒にいれば迷わないのかなって」。そういう思いに至ったところが裁判を傍聴していちばんの収穫だったように思いました。
「植松被告と日本社会と向き合いたいと思っていたんだけど、結果的にはずっと自分と向き合っていた裁判でした。人の役に立つとか、人に迷惑をかけないとか、社会に求められるような生き方に窮屈さと息苦しさを感じてきたんだけど、荘真は本当にあるがままに生きているので何だか子どもに頼っちゃって少し情けないけど、この子と一緒にいれば迷わないのかなって」
海君は重度の脳性麻痺の青年です。自分ではほとんど何もできない方ですが、お母さんは
「不自由な体でも、どうせ出来ない、どうせやらせてもらえない、と諦めることなく、いつも期待いっぱいワクワクして目を輝かせる海くん。楽しませてあげたいです」
という思いで海君といっしょにいろんなことに挑戦しています。
1週間に1,2回アップされるFacebookには、いつも海君の動画が入っています。いっしょにケーキのトッピングをしたり、イチゴのスムージー作りでイチゴをコップに入れたり、ナイフでケーキを切ったり、今日は自作の自助具を使う動画でした。
そのたびに海君、素敵な笑顔になって、いつも癒やされています。幸せな気持ちになります。
下の写真は散歩に出かけたときの笑顔。
日向ぼっこではつまらなさそうだったので「お散歩する?」に、この笑顔でした、とお母さん。
二十歳の誕生日にはこの笑顔
つい先日は入院騒ぎがありました。
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海くん、入院12日目、退院できました(^-^)㊗️
5/8 通所先から発熱や発作と酸素が必要な状況の連絡。手厚く見てくださり感謝です(^-^)
帰宅すると、在宅酸素を流し、サチュレーションモニターをつけ、熱を測ってる間には予め連絡していた訪問介護さんが到着してくださり、呼吸数など全身状態の観察をして、すぐ救急搬送が良いとの判断を仰いでくださりました(^-^)
救急車がつく頃に帰宅した中2三男に
「今から入院するね」
程度しか話せず、高3次男には会えず、救急車へ()
その日、夜勤だった主人。
主人の実家へ入院の旨を伝えると、次男と三男の夕飯のおかずと翌日の学校の弁当のおかずを用意してくれ、入院中、何度もたくさんの手作りおかずを運んでくれました(^-^)
実家の母は、子供達が学校に行っている間に、掃除、洗濯、ゴミ捨てと、自宅のフォローをしてくれ、病院にも面会に来てくれました(^-^)
両親は結婚50年の金婚式の旅行を計画しており、入院中に母の日のお祝いも満足にできず、心配させたまま旅行へ行かせてしまいました(๑˃̵ᴗ˂̵)💦
主人は仕事が日勤夜勤のある三交代の上、新幹線通勤。不規則な生活の中、家事に仕事に、帰りに病院へ寄ってくれたり感謝ばかり✨
おかげで、海くんのそばを離れず12日間の付き添い入院できました(^-^)
子供達も、お弁当のおかずを詰めたり、お手伝いに自己管理、元気に待っていてくれ、海くんが自宅に着くと大量の荷物を運び、車椅子から抱き抱え降ろし頭を撫でてくれました✨
みんなのおかげで今の小さくても暖かく、幸せが感じられ、障害のある海くんの子育てが苦もなく楽しいばかりです(^-^)
これからも海くんの笑顔が真ん中にありますように(^-^)
海君のお母さんのFacebookです。
在宅の重度障害者が窮地に、という記事を読んでも、外出を手伝いに行くわけにもいかず、コロナというのはなんともやっかいです。
記事の最後にこんな言葉がありました。
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「植松聖死刑囚は、重度障害の人は生きる価値がないと否定しているでしょう。その中で、親がこんなに大変だ、大変だというと、『ほらやっぱり』と思うような人がいるかもしれない」と洋子さん。
続けて「でもね、こんなに大変でも私たちが頑張っているのは、この子の命が何より大切だからなんです。信太郎の大切な命をなんとしても守りたいから、頑張れる。だから大変なのは事実ですけど、生きる価値がないなんて、そんなことは絶対にないということを言いたい。それだけは、伝えたいんです」。冷たい言葉があふれるコロナの時代に、この言葉を書き留めておきたい。
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記者の思いが溢れた言葉でした。
あらためて植松死刑囚はやまゆり園で重度障害の人たちとどういうつきあいをしていたのかと思いました。普通は毎日つきあっていれば、相手がどんなに重度障害を持っていようと人としての情が湧くものです。相手が笑えば、こちらもうれしくなったり、悲しい顔をしていれば、どうしたんだろうって心配になったりするものです。
それを
「生きる価値がない」
などと思ったのですから、やまゆり園の現場では「人としての情」を持っていなかったのだと思います。「人としての情」を持てないような雰囲気の現場だったのだと思います。
先日、神奈川新聞に「津久井やまゆり園」の支援実態を検証する第三者委員会の報告が載っていました。
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利用者の見守りが困難なことを理由に身体拘束をしていた事例もあった。身体拘束が漫然と行われていたと考えられるとし、「正当な理由なく身体拘束することは身体的虐待に該当し、重大な人権侵害であることを肝に銘じることが重要」と指摘した。
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重大な人権侵害である、と指摘されながら、かながわ共同会は
「必ずしもすべてが事実ではない。」
等と反論したようですが、事件との関連で行われたことの自覚が全くないですね。すべてが事実ではない、などといってる場合か、と思いました。事件を起こした現場の責任者としての自覚が全くないですね。
結局は法人のそういう体質のなかで事件は起こったのだとあらためて思います。
等と書いても、法人には届かないし、法人には自浄作用が全くないので、結局事件の温床は残されたままになるのだと思います。
神奈川新聞の記事
https://www.kanaloco.jp/article/entry-357593.html
障がいがある人と一緒に暮らす社会について掘り下げて考えるためのトピックス集です。