ぷかぷか日記

「健康な命」を未来に引き継ぐ

 先日2月3日、仕事の帰りに寄ったスーパーに恵方巻きがずらり並んでいました。おいしそうな具がいっぱい詰まった恵方巻きです。おなかも減っていたのでよほど買おうかと思ったのですが、裏のラベルを見るとびっくりするほどの添加物。具がたくさん入っている分、添加物も多いのでしょう。とても買う気になれませんでした。

 あんなにたくさんの添加物を体に取り込んで大丈夫なのだろうかと思います。一つ一つの量は少なくても、毎日毎日20年、30年食べ続けたら、大変な量になります。それだけの量を取り込んで、全く無害だとは思えないのです。

 そんな中にあって、命を傷つけたくない、「健康な命」を未来に引き継いでいきたい、と「ぷかぷか」は思っています。ですから「ぷかぷか」のパンには添加物は一切使っていません。カフェで使う食材も生活クラブの食材を中心に、できるかぎり無農薬、有機栽培の野菜を使用しています。

 4月からお弁当、お総菜事業を始める予定でいますが、同じ思いで食材を厳選し、おいしいお弁当、お総菜を提供します。おからの煮物は、朝、豆腐屋までおからを買いに行って作ります。お総菜のメニューはホームページに載せています。

「ぷかぷかパン」→検索→メニュー欄「お総菜事業」

今日雪が降るよ

 朝、gottiから電話。

「今日3時から雪が降るよ。寒いよ。みんなに言って。じゃあね」

と、電話が切れました。

 gottiは天気予報が大好きです。朝の会でいつも今日の天気を話してくれました。

今、家で療養中ですが、今日は珍しく雪が降るというので連絡してくれたのだと思います。

 雪が降る、というたったそれだけのことを伝えるためにわざわざ電話をかけてくるところがgottiらしいところ。

 gotti、健在です!

 

 

昔ガンになったときの話−6

 術後3日目、リカバリールームから大部屋に帰りました。当然ベッドごと運んでくれるものと思っていたのですが、看護婦さんに

「ここからは歩いて帰って下さい」

と、冷たく突き放されました。まるで子どもの自立を促すライオンです。

 そういわれてもなぁ、と思いつつ、とりあえずベッドを低くしてもらってなんとか立とうとしたのですが、からだがふらふらして、とても立つどころではありませんでした。体にとにかく力が入らないんですね。それとひどいめまい。

 見かねた看護婦さんが、結局車いすで運んでくれたのですが、大部屋に着いてからベッドに移るのがまたひと苦労。めまいはするし、腹は痛いしで、やっとの思いでベッドに横になったあとは、濡れタオルを顔に掛けてしばらくヒィヒィうなっていました。

 こんなに痛いんじゃ、しばらくはベッドから動けないな、なんて思っていたら、夜、黒縁めがねの看護婦さんが、有無を言わせぬ感じで

「トイレまで歩いて行って下さい」

と言い、

「え?あの…」

と、もがもが言ってる私の背中をがしっと抱えました。点滴台を杖代わりにしながら、トイレまでよたりよたりと歩きました。傷口がカパッと開いて、はらわたが飛び出しそうな感じで、もう必死になって腹を押さえながら歩きました。痛くて痛くて、涙がクーッとにじみました。

 トイレまでたどり着いたときは、体中汗びっしょり。しばらくは呼吸が乱れて、おしっこどころではありませんでした。

 動いた方が回復が早いとは言え、なんとも過酷なリハビリが始まったのでした。

カンパーニュ

 先週の金曜日、たまたま大きいサイズのカンパーニュが残っていたので、家で食べてみました。久しぶりにカンパーニュ食べたのですが、おいしかったですねぇ。パンそのもののおいしさというか、落ち着いた、揺らぐことのないおいしさみたいなものを感じました。

 カンパーニュは小麦粉、酵母、少量の塩(普通2%のところを、小麦粉の味を生かすために1.4%しか入れていません)、それに水です。いたってシンプルですが、シンプルな分、小麦粉のおいしさをそのまま味わえます。

 粉は岩手で取れた「ゆきちから」と「南部小麦」を使っています。ぜひ味わってみてください。

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パン屋が始まった頃の話−3

 お金が回らなくなり、就労継続支援A型からB型へ

 「ぷかぷか」のパン屋の構想を練っている頃、福祉事業所を作るという意識はなくて、「障がいのある人たちととにかくいっしょに働く場を作りたい」という思いだけでした。これは「福祉起業家」の発想です。

 福祉制度を使うことについてはいろいろ引っかかりもあり、自力でやるつもりでした。自力でなんとか最低賃金を払おうと思っていました。制度を使うことで、商売に甘さが出てくるような気がしていました。おいしいパンを必死になって作らなくても、制度を使えばなんとかやっていけるというところがずっと引っかかっていました。

 ところがあるとき知り合いから、「事業を安定して長続きさせるにはやはり制度を使った方がいいのではないか」というアドバイスを頂きました。

 「事業は闇雲に突っ走るのではなく、安定して継続させることが大事」という言葉は、私の中に響きました。利用者さんのことを考えれば、経営が安定して、事業が続くことが一番大事なところです。いろんな引っかかりよりも、そちらを優先し、定員が10人から始められる就労継続支援A型で始めることにしました。

 就労継続支援A型は、障がいのある人たちの就労支援を行う事業所。利用者さんと雇用契約を結び、最低賃金を支払います。事業所としては就労支援という福祉サービスの報酬が受け取れます。

 もっとも、最低賃金を支払い続けることがどれくらい大変なことか、始める前はわかっていませんでした。「障がいのある人たちに最低賃金を払いたい」という思いだけが先行し、そのための根拠になる売上高の検討は曖昧なままでした。絶対に売れる(と思っていた)国産小麦・天然酵母のパンで勝負すれば「多分払える」と思っていたあたりが、商売の素人の甘さです。

 その甘さは事業が始まってすぐに露呈しました。

 国産小麦・天然酵母のパンは思っていたほど売れませんでした。それを求めるお客さんがあまりにも少なかったのです。売上げは伸びず、ぷかぷかのパン屋が始まって1年目、資金繰りが限界に来ていました。給料日のたびに自分の貯金を取り崩し、資金を投入しないとやっていけないような状態でした。

 あっぷあっぷしている時に、福祉事業所を長年やっている方と話をする機会がありました。

「そんなに無理することはないのではないか」

「ここでつぶれてしまったら、利用者さんは困ってしまう」

「事業は続けることが大事」

そんなアドバイスをいただきました。

 「障がいのある人たちに最低賃金を払いたい」という思いはあっても、そのために資金繰りが悪化し、事業が続けられなくなるのであれば、本末転倒。ここはいったん最低賃金を取り下げ、ぷかぷかが無理なく払える賃金から再スタートしようと思いました。

 事業を続けることを最優先することにしたのです。利用者さん、保護者の方にもそのことを説明し、なんとか納得していただきました。就労継続支援A型からB型への変更です。スタートして1年3ヶ月目のことでした。

 

★ パンは1個100円とか200円の世界です。作っても作っても、入ってくるお金はたかがしれています。これでもって最低賃金を支払えるだけの売上げを上げるのは、やはりかなり厳しいのではないかと思います。

 ぷかぷかに来ているパン職人の話を聞くと、前に居たパン屋は朝3時から仕事が始まり、夜は8時頃まで仕事をし、土、日も休めなかったそうです。それくらい働かないとパン屋では食べていけないということでしょう。

 ぷかぷかのパン屋が始まる前、私が研修に行ったパン屋の職人も、「一日8時間勤務なんて、夢のまた夢ですよ」などと言っていました。プロの職人ですらこんな状態ですから、障がいのある方がパン屋で働いて最低賃金を稼ぐというのは、相当無理があったのではないかと、今更ながらに思います。

 福祉事業所の集まりで、長く就労継続支援A型をやっている事業所の方が、「最低でも利用者さんが20人いないと事業として成り立たないよ」とおっしゃっていました。20人分の福祉サービスの報酬が入る中で何とかやりくりしているという話でした。「ぷかぷかは10人でやっています」と言うと、「それは無理無理」と言われてしまいました。

 

 

昔ガンになったときの話−5

 どれくらい時間が経ったのだろう。遠くの方で

「高崎さん、手術、終わったよ」

の声がしました。返事をしようにも、口の中にパイプが一杯詰まっていて、息が出来ませんでした。

「ああ、苦しい、なんとかして」

と思うものの、口はきけないし、目も開きません。身体も全く動かせません。

「聞こえてたら手を握ってください」

の声が聞こえたので、もう必死になって手を握りました。誰かの指にかすかに触れた感じがしましたが、それ以上のことは何も出来なくて、

「ああ、もうあかん」

とか思っているうちに、また意識がなくなりました。

 

 目がぼんやり覚めたのは夜。そばで看護婦さんが血圧を測ったり、脈をとったりしていました。口には酸素マスクと青い管、鼻からはチューブ、腕には点滴の針、胸からは細いケーブル。身体を動かそうとすると、お腹が締め付けられるように痛い。

「ああ、そうだ、胃を取ったんだ」

と、ようやく事態を納得。また眠くなって、よくわからなくなりました。

 

 次の日の朝に、ようやく目が覚めました。お腹の真ん中が、何とも重くて痛い。背骨に薬を入れるチューブが入っているようで、そこに痛み止めの薬を入れると、少し楽になりました。右脇腹のガーゼを交換。鮮やかな赤が混じったピンク色に染まっていました。あとでわかったのですが、直径1㎝くらいのプラスチックの管が脇腹から出ていて、そこからお腹の中の汚れた腹液を出すようになっていたようです。やわらかいお腹から、堅いプラスチックの管が出ていることが、何とも違和感がありました。

 目が覚めてからは、時々寝返りを打つように言われました。身体を動かした方が内臓の治りが早いと医者は言うのですが、昨日手術したばかりで、寝返りなんかしたら、塗ったところが開いてしまうんじゃないかと心配になりました。

「しっかり縫ってあるから大丈夫です。どんどん寝返りうってください」

と言われ、おそるおそる寝返りを打ってみました。はらわたがぞろっと動き、何か自分のお腹ではないような感じでした。ビビッと突っ張ったような痛み。右を下にしたときは、脇腹から出ている管が当たって、その管がはらわたをかき回す感じがあって、

「ちょっと、これ、やばいんじゃないの」

と看護婦さんを呼びました。

「平気平気、大丈夫ですから、どんどん寝返りうってください」

と全く相手にされませんでした。

 

 午後になって

「約束ですから」

と医者がガーゼをかぶせたバットを持ってきました。ガーゼを取ると、やや白っぽくなった胃が広げてありました。見た感じ、ホルモン焼きの材料とほとんど変わらなくて、なんだかちょっとガッカリ、でした。

 真ん中当たりに少し色の違うところがあって

「ここが病変部です」

と医者が短く説明。

「ああ、ここがガンなんですね」

「ええ。まあ、そうです」

と、言いにくそうに小声になりました。

「見た感じでは、まだそんなに進行してないみたいですね」

「ええ、そうです」

そうか、そうか、じゃあ、やっぱり大丈夫なんだな、とホッとしながらしげしげ眺めていたら、

「もういいですか」

と一刻も早くこの場を切り上げたい感じで医者が言いました。ドラマチックな「対面」もなかったので

「はい、いいです」

と答えると、バットを持って、そそくさと出て行きました。

 40年間、一日も休まず働いてくれた胃に、もう少し気の利いた感謝の言葉のひとつも言いたかったのですが、それもなく、なんだか寂しい別れでした。

 

 

昔がんになったときの話−4

 2月8日、いよいよ手術の日。6時に起こされ、浣腸。

 いつもならトレーニングで1階から7階まで駆け上がっていたのですが、今日はさすがにそういう気分にはなりませんでした。点滴の始まるまでの2時間半(手術の始まるまで残された貴重な時間)を丁寧に過ごそうと思いました。

 朝の光が薄いだいだい色に輝いていました。その何でもない光が今日はきれいです。とてもゆったりした時間。ぼんやり遠くを眺めたはずが、やっぱりがんのことが気になって、そうなるとまた際限もなく、悪い方向へ気持ちが行ってしまいました。

 「あー、まずい、まずい」と、キャン・マリー(あの頃凝っていた沖縄のロック歌手)のテープをかけました。いつも以上に彼女のエネルギーがキュ〜ンとしみ込んで、少し元気になった気分。

 8時、かみさんが、少し遅れて両親が来ました。お互い緊張しているせいか、会話がぎこちなく、間を持て余しました。

 8時半、移動用の狭いベッドが来て、それに移りました。やたら狭いベッドで、気をつけの姿勢でないと横になれなくて、もうそれだけで緊張してしまいました。点滴が始まりました。

 9時、筋肉注射。軽い麻酔のせいか、意識が少しぼんやり。ガラガラ音を立てて手術室へ運ばれました。ぐんぐん動く天井見ながら、昔よく見た「ベン・ケーシー」っていうテレビドラマは、いつもこんな天井のシーンから始まったよなぁ、なんてふと思ったりしました。

 手術室。真ん中に手術台。その上に大きなライト。ごちゃごちゃ並んだ機械。殺風景な壁。その中で、大きなマスクと帽子、それに青い手術着、といういわばスキのない完全装備、といった感じの人たちが黙々と動き回っていました。

 その真ん中にパンツもはかずにペラペラの布をかけられただけで横たわる、というのは何とも心細い気がしました。おまけに両腕を手術台に縛り付けられて、絶体絶命!という雰囲気。

 そんな中で突然表情の見えない完全装備の一人が

「昨夜はよく眠れましたか?」

と話しかけてきました。

「え?ええ、ええ、わりとぐっすり」

とかいいながらよく見ると、手術の説明をした主治医でした。

「あ、あの、手術のあと、切った胃を自分で見たいんですが…そういうのってアリですか?」(40年も僕のために毎日毎日休みなしに食い物を消化し続けてくれた胃です。黙って別れるのはちょっと寂しい気がしました。それとがんになった自分の胃をしっかり見ておきたいと思ったのです。)

 そんなことを言い出す人なんて、多分今までいなかったんだろうと思います。ちょっと間があって、

「善処します」

という答えがあり、それを聞いてほっとしたあたりで意識がなくなりました 

世界との向き合い方が…

  実習生のGaiさんが自分でイヤリングを作りました。プラバンに絵を描き、オーブントースターで焼き、色づけし、樹脂を塗って質感を高め、商品にしました。

 下の写真のセットで1,200円の商品になりますが、実習のお土産にしました。

 挑戦的な自画像を描いていたので、うまくやっていけるのかどうかわからなかったのですが、こんな素敵な商品を作ってくれたので、ぷかぷかに来て、なにか心境の変化があったのかなと思います。

 以前実習に来られた方で、実習の毎日が楽しくて仕方がなくて、明日が待ち遠しい、とまでおっしゃった方がいましたが、Gaiさんも、自分がふわっと解放されるようなところを見つけたのかも知れません。

 いちばん下に自画像をのせましたが、実習中に作った作品と見比べると、世界との向き合い方がちょっと変わってきたのかな、と思いました。素直に自分を表現できるようになったというか、Gaiさんの中で、ちょっと楽になったところがあるんじゃないかなと思います。

 いろんなものを持っている方で、これからがすごく楽しみです。

 

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男気全快

 今まで見たこともないようなえらく派手な上履きがぬいであって、誰だろうと思ったら、実習中のGaiさんのものでした。

 「男気全快」なんて書いてあって、なんかすごく元気が出る感じがしました。

 今度こんな感じでぷかぷかの車にいろいろ描いてもらおうと思いました。「男気全快」なんて描いた派手な車が街を走るなんて、考えただけで楽しいです。

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昔ガンになった時の話−3

 寝る前に涙をぽろっと流したかみさんに、大丈夫だよ、なんていいながら、その言葉の空疎な響きにげんなりした翌日、しばらくはうまいもの食えないだろうと、昼飯に2,600円もする鰻重を食べてから入院。医者の説明をかみさんと二人で聞きました。今手術すれば90%大丈夫だからという説明に、かみさんは少し安心したようでした。

 手術まで10日ぐらいあって、その間にギンギンまつりのことであちこち狂ったように電話しました。テレフォンカードで数万円使いましたね。それくらいやらないとギンギンまつりの引き継ぎができなかったこともあるのですが、後から考えると、なんだかんだいいながらも、一人しんと静まりかえると、やっぱり揺れ動いてしまう自分があって、電話をかけまくることでなんとか自分を保っていたような気がします。

 胃がんの手術をした人は周りに結構いて、今は胃がんで死ぬことはないから大丈夫だよ、と慰めてくれました。そうでなくては困るのですが、単なる気休めではなく、もう少し自分でもきちんと納得しようと、検査の合間を縫って本屋に行き、ガンについての本を買いました。知識としてではなく、自分の中にガンを抱えながら読むと、文字の一つ一つが体にしんしんと痛いほどしみました。

 手術の2日前、外科の医者から手術についての説明を聞きました。胃カメラの写真見せながら丁寧に説明してくれました。ここに潰瘍があって、そこの細胞を顕微鏡で調べたところ、非常にカオの悪い細胞が見つかったので、手術で切り取ります、という説明でした。

「そのカオの悪い細胞というのはガンのことではないんですか?」

と聞いたところ、

「ええ、まあ、そんなふうに言う人もいます」

と、ずいぶん苦しそうな答え。

 あとでかみさんに聞いたところ、家族への説明でははっきりガンといったそうで、その時、

「私は患者さんにははっきり言わないことにしているんです」

ということも言ったそうです。

 最初に

「あなたはガンにかかってます」

とはっきり言った内科の医者は、

「普通はこんなふうに患者さんにはっきり言わないのですが、患者さんが若くて、ガンがまだ初期の段階では、はっきり言わないと入院なんかしてこないでしょ」

なんてあとで笑いながら言ってましたが、それもそうだと思いました。

 

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