きっと深い訳があるのでしょう。
きっと深い訳があるのでしょう。
『セロ弾きのゴーシュ・ぷかぷか版』の背景画を企画した金子さんが表現の市場の感想を送ってくれました。金子さんらしい言葉で「表現の市場」を語っています。
「心の温泉浴やあ・・・『表現の市場』」
1月末の日曜日、ぷかぷか村の人たちが劇『セロ弾きのゴーシュ~ぷかぷか版~』をやるというので、横浜の長津田にある『みどりアートパーク』の『表現の市場』に行った。
午前中、橋本で仲間たちとアートをやっていたので、自転車を飛ばして劇場ホールについた時には、『あらじん』の太鼓演奏や『はっぱオールスターズ』のラップは終わっていて少々がっくり。でもロビーには『表現の市場』の多様で柔らかなにぎわいが漂い、耳をすませばチェロの心地よい調べが流れている。
誘われるようにそっとホールに入るとほとんどの席が埋まり、300人くらいの人がチェロと太鼓のセッションを聴いている。これだけの人たちが、冬の午後をみんなで過ごそうと市場に集まって来ているのだと思うと、それだけであたたかい気持ちになった。
『表現の市場』の企画者である高崎明さんがよく口にする「障がいのある人達とは一緒に生きていった方がいい」というフレーズが浮かんできて、身体に浸みてくる。
そう、「浸みてくる」・・・このゆっくり温まるぬくもり感が実にいいのだ。
高崎さんの言葉は、昨年の津久井やまゆり園殺傷事件の容疑者の「障害者はいないほうがいい」に対応した彼独特の言い回しなのだが、それを言葉だけではなく、こんな風に実際に実感できる場を創りだしているところが彼の凄いところ。
ボクなんかは「優生思想はけしからん!」「自分の中の差別・加害者性に気づくべきだ!」とすぐにとんがった言葉を口にして、空回りばかりしてる。情けない限りなのだ。
そんな反省も込めて、ぷかぷか村の仲間たちの劇を見ていると、劇場全体が心地よい熱気に包まれているのに気づく。
舞台上の仲間たちの演技に合わせて、「ゴーシュ、なにやってんだあ」とか「トントン、タヌキですう!」といったセリフが客席から聴こえてきて、まるで炭酸温泉の泡(あぶく)のように舞台と客席の間を行き来しているのだ。
それが人のぬくもり、体感温度をつくりだし、ボクはすっかりゆるゆるになってしまった。
「こいつは凄いなあ」とボクは舌を巻く。
温泉浴でもするようにここで少しの時間を過ごしただけでも、きつく締めすぎていたボクらの頭のボルトは緩むような気がする。
今年の『表現の市場』で、もう一つ心に残ったのは休憩時間にロビーで歌ってくれた『ラブ・エロピース』のゆうじ(実方裕二)さんの歌声だ。
車いすに乗り、真っ赤な花模様の服を着こんで、首を大きく右に曲げて絶叫する白髪のゆうじさんは実にカッコいい。
歌詞は何を言っているのか、実はボクにはよく分からないのだけれど、シャウトするエネルギーがゆうじさんの身体を突き抜け、周りのボクたちの上に降り注ぐ。
ゆうじさんはきれいな舞台よりも、ボクらの身近なロビーや路上で歌ってほしいミュージシャンなのだ。
そんなゆうじさんの絶叫とぷかぷかの劇が共存する『表現の市場』は、不寛容と憎悪、戦火の拡大する世界の中では、とても大切な『心の温泉浴』のような気がする。
「心の温泉浴」いい言葉ですね。たくさんの人がぷかぷかに集まっているのも、「心の温泉浴」に浸っているのかも知れませんね。
相模原障害者殺傷事件について、ともすればとんがった言葉が飛び交いますが、とんがった言葉をいくら語っても社会は変わりません。大事なことは容疑者を生んでしまったような社会を変えることです。障がいのある人たちを排除するのではなく、いっしょに生きていこうとする社会を作り出すことです。金子さんのいう「心の温泉浴」を感じられる場所があちこちにできたなら、私たちはその社会に向けて希望を持つことができます。障がいのある人たちとフェアに向きあう関係を作っていれば、障がいのある人たちといっしょに生きていくといいよね、って思っていれば、「心の温泉浴」はどこでも誰でも簡単に作ることができます。
NHKラジオ深夜便で「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいい」といったことをしゃべったのですが、その言葉が衝撃だったという方が愛知県から訪ねてきました。
その後、その方がパン屋で一日「ぷかぷかさん」たちと働く体験をし、ワークショップに参加し、なんと「ぷかぷかさん」たちといっしょに舞台に立ちました。すばらしい感想を送ってきましたので紹介します。
この1ヶ月本当にお世話になりました。中身の濃い充実した1ヶ月でした。そして思いもかけぬ1ヶ月でした。
まさか自分がメンバーさん達と共に舞台に立つなんて!人生何が起こるか分かりませんね。でもとてつもなく楽しい経験でした。
今回自分自身感じた一番大きな変化を書きます。
それはステージに立つ彼らの姿を観ていた時です。
それまでにも障害のある方のパフォーマンスをテレビで見たことはありました。しかしながら僕はそういった映像を見るときどこか居心地の悪さを感じていました。どういう風に見たらよいか分からずとまどってしまうのです。
しかし今回、生で彼らのパフォーマンスを見たとき全く違う印象を受けました。
「なんてカッコいいんだ!」
素直にそう思ったのです。軽い嫉妬すら感じるほどに。
その時、彼らを「障害者」として見ていなかったのです。ただ人間が生きることの「凄み」のようなものを感じていました。
身体を大きく揺らしながら朗々と「愛の讃歌」を歌う辻さん、見事な太鼓を披露してくれたアラジン大ちゃん、自分の壁を自分で壊す姿をありありと見せてくれたはっぱオールスターズ、電動車イスの上で身をよじらせながら魂の叫びのようなシャウトを聞かせてくれたラブエロピース。
その後、ぷかぷかメンバーさん達と舞台に立つ上での大きな励みになりました。そしてこの先、自分自身生きていく上での勇気を貰ったようにも思います。
彼らが自由に伸びやかに生きられる社会は、きっと「健常者」とよばれる人にとっても生きやすい社会だと思います。
自分もどんな些細なことでも、そのお手伝いができればと思いました。
また遊びに行きます。本当に有り難うございました。
ラジオ深夜便の言葉を聞いて衝撃を受けた方が、ぷかぷかに来て、一緒に仕事をし、いっしょにワークショップをやって、ここまで変わった、ということです。障がいのある人たちとのおつきあいの仕方一つで、そこにかかわる人がこんなふうに変わるということです。
相模原障害者殺傷事件はとても大きな問題で、何から手をつけていいのかわからないほどです。でも、大きな問題を大きな問題のまま語るよりも、こうやって一人の人間が深いところで変わることを丁寧に実践する方が、確かな形で希望を作り出す気がします。
演劇ワークショップにはじめて参加された方の感想です。奥さんに誘われ、わけもわからずに参加しながらも、ぷかぷかウィルスに感染してしまったみたいです。最後の反省会で、今日で終わってしまうのが、とても寂しいです、とおっしゃっていました。わけもわからず参加したにもかかわらず、そんなふうに思える関係がワークショップの中で自然にできてしまうって、すごいことじゃないかと思います。
ぷかぷかさんを本気で叱ったりする近所の素敵なお母さんが「表現の市場」を見に来てくれ、すばらしい感想を寄せてくれました。直球の感想です。彼女の中にあったガチガチなものを「表現の市場」は少ーし解きほぐしたように思います。
「表現の市場」へ
とにかく連日体調が悪かったこともあって、「表現の市場」の観劇?に行くことは大変だった。それでも、「行きます」と約束したし、なんとなく「今回この舞台に行かないと、私は一生後悔するかもしれない」とオーバーにも思って、電動自転車をかっとばし会場に向かう。一言でいえば、私の勘は的中で、行ってよかった!と…。
障がいの人たちがつくる舞台というものをこれまで観たことがなく、始まる前からなんとなくソワソワするし、居心地が悪い。どうゆう風に観るのが正解なのかが、よくわからない。他のお客さんは常連さんなのか、割りとニコニコ楽しそうに開演を待っている。舞台をもう何回か観ている私の友人たちは前方の席に陣取っていたけれど、私は体調も悪いし、なんとなく雰囲気に吞み込まれたくなくて、最後方の席に陣取る。私はたぶんちょっとひねくれているので、「この舞台が、フツーに楽しいのか、どうか」ということを感じたいと思っていた。“障がいの人たちがやっているから”素晴らしいとか、素敵だとか、感動する…というものには私はあまり魅力を感じない。良い意味でも差別することは、私はあまり好きじゃない。(これを書き出すと長くなってしまうけれど、障がいの人を必要以上に美化するような発言は、障がいの人が身近にいない人の特権のようなものだろうな…と思っているから)そんなこんなで緊張していた私をよそに、開演の時間を迎えた。
高崎さんとぷかぷかさん(辻さん?)が壇上に上がる。高崎さんが相模原の事件の話をする。相模原の事件のことをぷかぷかさんたちはどのくらい知っていて、どのくらい理解しているのだろうか?と不安になる。今から、さぁ楽しい舞台を!と思っている彼らにとって、相模原のことを思い出して、パフォーマンスができなくならないだろうか?と心配する。話のあとに、ぷかぷかさんの独唱があり、演目表がめくられて第一部の和太鼓へと進む。さぁ、和太鼓が始まるぞ、という暗転の中、客席にいたぷかぷかさん(たぶん辻さん)が「表現の枠を超えた…」と叫ぶ。これは演出なのか!?と疑うほど、モノローグ的で、ちょっとカッコイイ!と思う私。和太鼓は正直「どの子に障がいがあるんだろう?」と思うほど、あっけにとられてしまった。迫力もあったし、きっと「こうしたらカッコいいんじゃない?こうした方がうまくいくんじゃない?」と色々練習で挑戦したんだろうな、と思えるパフォーマンスだった。そして何よりも、彼らは明るくて、楽しそうで、輝いていた。それから私はとてもとても反省する。障がいの人は、もっと寂しい感じなんじゃないか、と勝手に思い込んでいた。イメージを勝手に持っていた自分に気づいて、反省した。それでも、障がいのある人みんながこんなに楽しそうに生きているわけでもないだろうということも同時に考え、でもどうせならば、こんな風に楽しく生きた方が人生はいいんじゃないかな、と想いを馳せる。太鼓の音は心臓の鼓動のようで、まさしく〝生きる“ことがそのまま体現されていた。客席にいた小さい子(おそらく障がい児)が舞台に駆け寄って行って、今にも上がりそうな勢いだった。素直な心がそこにもあって、感情に素直なことは素敵だなと思う。その子が舞台に駆け寄って行く様を見ても、他のお客さんがそれに動じることはない。そんなお客さんも含めて、会場を温かく感じた。私の緊張も解けて和太鼓が終わった後には、隣りに座っていた息子が「もっと前でみたい!」と言い張り、前方にいる友達の席へと移動してしまった。私は体調の悪さもあったし、そのまま一人で最後方で見続ける。ほぼ最前列へ移った息子は、やっぱり私より数倍素直なんだろうなぁーと感心する。
次のラップも、楽しさがビンビンに伝わる。とにかく楽しくて仕方ないし、喜ばせたい、楽しませたいというサービス精神が前面に出ている。ここでの私の反省点というか気づきは、そうか、彼らもコミュニケーションをこんなに取れるんだ!ということ。よく、障がい児を「コミュニケーションが難しい」と巷では言っているような気がして、私もそう思って疑わなかった。でも、それってそうなのかな?と考えた。そもそもコミュニケーションって、私がいてあなたがいる訳で、相手に合わせることも大事なことの一つならば、自分とちょっと違う相手だったとしても相手に合わせるよう、頑張ればいいだけじゃないのかな?と…。とにかく、舞台を観ている間、私の頭の中は考えることが次から次へ襲ってきて、本当に忙しかった!知らなかったことが山盛りで、自分の中でそれをかみ砕こうとするのだけど、舞台は舞台で面白くてつい笑ったりしていると、考えていることがどこにポーンと飛んでいく…そうゆう体験は久しぶりで本当に来て良かった。ラップ隊の一人の子が、たぶんあまりにも楽しくなって列を乱して前方へ行こうとしたら、それをバシッと止める仲間もいたりして、色んな性格があって面白いなと思った。自由にやりたい子、ちゃんとやりたい子、自分の中でひそかに満足して嬉しさがこみあげている子、振り付けに自信がなくてキョロキョロする子、色んな子の表情がそこにはあって、この子たちが同じ教室(学校?)にいた時は、どんな毎日だったのかな、と、いつか話を聞いてみたいなと思った。
第二部のチェロ×太鼓。ここに“本物の”チェロが響くことに、感動する。プロの音がこの会場を包む重厚感が、そのまま、色んな人を認めようよと言っているような気がする。そしてぷかぷかさんによる太鼓が決してお飾りや情け的なものではないことも、演者二人から伝わる。何か多くを語るわけではないのに、強さを感じる演奏だった。ぷかぷかさんの真面目な姿は、決して誰かにやらされている訳ではなくて、彼の内面からにじみ出たものだと思った。神聖なと言ったら大げさかもしれないけれど、私にはそう感じた。次の「蜘蛛の糸」は急に本格派だったので、この「表現の市場」は面白いなぁと思う。なんでもアリな感じが、自由でいい!この時に、一部のラップ隊の人たちが、身を乗り出して舞台を観ていたのが印象的だった。
長い休憩時間になったので、ロビーに出る。販売していたまち針が私好みだったので3セットお買い上げ。ロビーでLIVEが始まる。「あ、懐かしい!」と思ったらRCサクセションの歌だった。RCは高校時代に大好きだった。高校時代のやさぐれていた時をちょっと思い出したりしながら、今日は家に帰ったらRCを聴こう!と強く思う。(そして、この日から急にRCを聴きまくる)
さて、いよいよ「セロ弾きのゴーシュ」が始まった。すごい人数だったけど、どの人もこの瞬間を楽しみにしていたんだろうなという〝気“が伝わる。何人かからは、「成功させたいの!」という想いも伝わる。「表現の市場」なのだから、この”伝わる“ということは重要だと思う。舞台に立っている人だけが楽しくて満足というのでは、ちょっと残念だ。表現するからには、やっぱり何か伝えるんだと思う。ワークショップの事は私には知る由もないけれど、のびのびと舞台に出ているぷかぷかさんたちから、とても自由さを感じた。ピアノの方がこれまた楽しそうに弾いていて、それに合わせて歌うぷかぷかさんたちから、人生は楽しまなくちゃね!と言われたような気がした。高崎さんが出てきた場面では、舞台の上のぷかぷかさんからも、客席にいるぷかぷかさんからも、熱いまなざしがあったように思う。みんながみんなといることが大好きで、ここに今日もみんなでいれて嬉しい!と高崎さんにメッセージを送っているようだった。舞台の最後に高崎さんが真面目に「障がい者との社会」の話をした。その時に、「あ、そうだ、今日はそうゆう舞台を観に来たんだった」と私は思い出した。観ている最中、何か特別な特異なものを観ているような感覚は全然なかった。最初のソワソワした居心地の悪い感じは、もうどこにもなかった。本当に楽しい週末を私は過ごせたし、この舞台を観に来て良かったと思う。なにより、自分自身にまだまだ素直な息子が「あー今日は楽しかった!」と言ってその日は寝た。それでも、その日の夜に思ったことは、どんな人のことも特別扱いしない社会にどうしてならないんだろうか、ということ。今日の会場は温かい空気があって、和やかで、笑顔がたくさんあって幸せに満ちていた。だけど、社会はどうだろう?ひとたび電車に乗れば、ちょっと障がいの子がいると、ジロリと怪訝に見る大人がいる。障がい児を引き連れているお母さんが暗い顔でその子の後ろに立っている。その現実と「表現の市場」の幸福感の距離がまだまだかなりあることに、悲しくなる。でも、それは社会にいる大人たちの想像力の乏しさが原因かもしれない。現に私だって、今回気づいたことや、知ったことが沢山あった。またこの「表現の市場」が開催されて、私みたいな人が、一人でも二人でも増えることを望みます。私にもまだまだ知らない彼らの魅力がたくさんあるんだと思う。相手を知りたいと思う本能に、障がいもフツーの人も関係ないんじゃないかと思う。ありがとうございました。
1月29日(日)第3回表現の市場をやりました。いつもなら次の日くらいにブログをアップするのですが、今回はさすがに疲れがたまって、ブログを書く気力がありませんでした。相模原障害者殺傷事件があって、いつも以上に気が張っていた気がします。
和太鼓のアラジンはいつものように力強い太鼓の演奏で、会場を圧倒しました。彼らの演奏を前にすると、彼らのことを「障害者」と呼ぶことはもうできない気がします。そういう相手を見下す言葉を、思いっきり跳ね返す演奏だったように思います。
「はっぱ隊」あらため「はっぱオールスターズ」も、相変わらず元気で、小学生の女の子は三代目J Soul brothersが舞台に出てきたと思った、とお母さんがおっしゃってました。それくらいかっこいい舞台でした。養護学校の卒業生たちが仕事をしながらこうやって舞台に立ち続けていること、自分を表現し続けることがすばらしいと思います。俺たちこうやって元気に生きてるぜ!って、舞台で叫んでいました。私たちの方が彼らに励まされている気がしました。
日本フィルハーモニーのチェロ奏者江原さんとぷかぷかのダイちゃんとのコラボ。相模原障害者殺傷事件で犠牲になった人たちへ捧げる「レクイエム」の演奏は、しみじみ心にしみました。みどりアートパークの館長さんは「涙がこぼれました」とおっしゃっていました。犠牲者のことを思い、涙を流す感覚をいつまでも忘れないでいたいと思います。その感覚がある限り、社会にはまだ希望があります。
その希望に向かって歩くために「上を向いて歩こう」の演奏がありました。中華鍋をたたいたダイちゃんの演奏が素敵でした。
ダイちゃんの演奏のセンスをいち早く見抜き、自らコラボを買って出た江原さん。
2月26日(日)杉並公会堂で行われる日本フィルハーモニーのイベントでダイちゃんといっしょに舞台に立ちます。
http://pukapuka-pan.hatenablog.com/entry/2017/01/22/164744
デフパペットシアターひとみの『蜘蛛の糸』。聴覚障害を持つ善岡さんと榎本さんの表現力が光っていました。こういう人たちがいるからこそ、表現の世界が豊かになるんだとあらためて思いました。
障がいのある人たちは、健常者といわれる人よりも劣っているのではなく、私たちにはない、ちがう能力を持っている人たちなんだと、デフパペの舞台見ながら思いました。そうやって謙虚に彼らとおつきあいすると、そこからとても豊かなものが出てきます。ぷかぷかのワークショップは、そういった思いでデフパペの人たちといっしょにやっています。デフパペの人たちも、同じような思いでぷかぷかさんたちとつきあっています。
そして『セロ弾きのゴーシュ ぷかぷか版』。今年はなんといってもひょんなことから私自身が舞台に立ってしまったことが、いろんな意味で大きな出来事でした。楽長に予定していたぷかぷかさんの調子が悪くて直前になって来られなくなったため、とりあえず臨時で楽長をやったのですが、そのまま本番までいってしまいました。
舞台に彼らと一緒に立つって、やっぱりいいですね。本気でゴーシュを怒鳴りつけたら、ゴーシュ役のショーへーさん、本気で怖がっていました。彼の目を見たとき、「ああ、この人本気でゴーシュやってる」って思いました。ふだんぷかぷかでは少しずれた感じで、彼と向き合っているのですが、舞台の上では本気でそれぞれの役を生きていた気がします。そういう関係でぷかぷかさんといっしょに舞台に立てたことがすごくよかったと思っています。
『セロ弾きのゴーシュ』を彼らといっしょに作る、というのは、こういう関係があって初めてできることです。何かをやってあげるとか支援するといった関係では、多分こんな舞台はできません。歌っている彼らの表情を見てください。この表情こそがいっしょに舞台を作る、ということであり、いっしょに舞台を生きる、ということです。
舞台の背景画、すばらしかったですね。
舞台の袖で、出番を待つこの真剣な顔
ファッションモデルのお姉さんたち、大活躍でした。
そして六日目の晩の演奏会。ぷかぷかさんたちも地域の方たちも、この真剣な表情。ツジさんがこんな表情をすることはふだんありません。
フィナーレ!
私たちは、どこまでも彼らと一緒に生きていくことを選択します。そんな思いがあふれた舞台だった気がします。
障がいのある人たちといっしょに生きていくことで、相模原障害者殺傷事件を超える社会を作っていきます。
第3期第7回目ワークショップ。 本番前日、まだまだ不十分ながらも、場のテンションはぐんぐん盛り上がっていました。
楽長にしかられたゴーシュは壁の方へ向いて涙をこぼしますが、 ♪…気を取り直して自分だけ今やったところをはじめから静かにも一度弾き始めました…♪に続いて江原さんのチェロと安見ちゃんのピアノが入ります。ほんとうに息をのむほどのすばらしい演奏でした。
オーヤさん、ますますがんばっていました。
デフパペットシアターひとみの善岡さんは耳が聞こえません。アルゴリズム体操を一緒に踊るため、みんないろいろ工夫していました。こういうことがワークショップの中ではとても大切です。一緒に生きるにはどうしたらいいか、それをみんなで考えるのです。
hanaちゃんもいっしょにグールグル
賢治の人形 デフパペットシアターひとみ制作
舞台では照明の仕込み
背景画を貼るパネルのセッティング
照明のテスト
舞台へ
ピロティではパネルの準備
なんかもう抱きしめたくなるような字です。
こんな味のある字を書く人とは一緒に生きていった方がトク!
表現の市場のお知らせはこちら
http://pukapuka-pan.xsrv.jp/index.php?第3回表現の市場チラシ
相模原障害者殺傷事件を超える社会はどうやったら作り出せるのか、それは障がいのある人たちへのマイナス目線(「障がいのある人はなんとなくいや」「障がいのある人は怖い」「障がいのある人は能力が低い」「障がいのある人は効率が悪い」「障がいのある人は役に立たない」「障がいのある人は社会のお荷物」「障がいのある人は支援が必要」「障がいのある人は何かやってあげないと何もできない」「障がいのある人が来ると地価が下がる」「障がいのある人はいない方がいい」「障がいのある人は生きている意味がない」等々)をひっくり返すような、プラス目線のおつきあいを作り出すことではないかと思います。
事件はこのマイナス目線がもっとも不幸な形で現れたものだと思います。そうであればなおのこと、私たちはプラス目線のおつきあいを作り出さねば、と思うのです。いや、「ねば」という義務感を伴うものではなく、そういうおつきあいを作った方が「トク」という感覚でやりたいですね。
今まで何度も書いたことですが、私は養護学校の教員時代、障がいのある子ども達に惚れ込んでしまいました。マイナス要素をいっぱい抱え込んだ子ども達でしたが、それでも毎日おつきあいしていると、人としてきらっと光るものをいっぱい持っていて、なんかね、惚れ込んでしまったのです。この人たちのそばにずっと一緒にいたいって思うようになったのです。
その思いが「ぷかぷか」を作りました。「ぷかぷか」はですから、障がいのある人たちとプラス目線でおつきあいをしているお店です。「ぷかぷか」が作り出している楽しさ、おもしろさ、豊かさは、彼らとのプラス目線でのおつきあいの結果です。
1月29日(日)の表現の市場は、そのプラス目線のおつきあいが創り出す新しい文化のお祭りといっていいと思います。こういうおつきあいがちょっとずつ広がっていくといいなと思っています。社会が変わるとか大きな話よりも前に、プラス目線のおつきあいをすると、私たちがまず《トク》します。損得のトクです。トクの中身は表現の市場に来てもらえるとわかります。「え〜、なんだろう?」ってわくわくしながら来て下さい。
今朝の読売新聞でぷかぷかが紹介されていました。
http://pukapuka-pan.xsrv.jp/index.php?読売新聞2017年1月27日
相模原障害者殺傷事件から半年。NHKがすごくがんばっています。
19人、一人ひとりのエピソードを書いていこう、という試みはすばらしいと思います。ただ書かれたエピソードが、まだまだ薄い感じがします。知ってる人はもっともっと書き込んで欲しいと思います。特にいちばん若い19才の女性「短期で施設を利用していたころから、かわいらしい笑顔で人気者でした。」としかないのは、とても悲しいです。年齢からして養護学校を卒業したばかりのようです。大和市の方という情報もあります。瀬谷養護学校、相模原養護学校、座間養護学校の方で心当たりのある方はぜひ思い出を書き込んであげて下さい。
大学のゼミの討論が録画されていますが、大学生なら社会の問題にもっともっと切り込んで欲しいと思います。ぬるい議論で終わっている感じがします。社会全体を見渡す目をしっかり持って欲しいですね。
家族会の会長も、社会に対する思いをもっともっと語って欲しいと思います。語れない雰囲気もあるのかも知れません。
今朝の神奈川新聞はそのことをきちんと書いていました。
私たちはこの事件について、もっともっと語る必要があると思います。私たちにとって相模原障害者殺傷事件はなんだったのか。私たち一人ひとりの生き方が問われています。
そのことと平行して、障がいのある人たちとの前向きの楽しい関係を一つでも作り出すことが大事だと思います。議論ばかりしていたのでは、なかなか前に進みません。大事なことは障がいのある人たちといい関係を作り、みんなで前に進むことです。
機会があればぜひ「ぷかぷか」に来てみて下さい。障がいのある人たちといっしょに楽しいお店をやっています。上から目線ではない、いっしょに楽しく生きていこうよ、という関係でやっています。「彼らとは一緒に生きていった方がいいね」って自然に思えるような雰囲気があります。ホームページはhttp://pukapuka-pan.xsrv.jp
昨日、しんごっちのお母さんがぷかぷかに来ました。表現の市場で小児ホスピスの募金箱を置いてもらえないか、という話でした。ほんとうはお母さんが持って来る予定でしたが、知り合いの小学生に脳腫瘍が見つかり、余命何ヶ月かを宣告され、子どもと両親の支援に入るため、表現の市場には来られない、それでもいいか、という話でした。もちろんいいですよ、とお答えしたのですが、余命何ヶ月かを宣告された小学生の話は辛いものがありました。
ほんの1年ほど前に悪性の脳腫瘍がわかり、それまで全くふつうの生活をしていた子どもが、だんだん調子が悪くなり、次第に歩けなくなり、言葉が出なくなり、食欲もなくなって、今とても厳しい状態のようです。
まわりの人たちが、自分抜きで自分の病気のことを話し合うのが嫌だと、本人も話し合いに加わることになり、自分の余命を告知されることになったと言います。
小学生が自分の余命の告知をどんな思いで聞いたんだろうと思うと、胸が痛みました。しんごっちのお母さんは子どものそばに行っても、話しかける言葉が見つからない、とほんとうに苦しそうでした。
でも、そんなふうに辛い思いをしている子どもにこそ向き合わねばならないと、しんごっちのお母さんは自分を奮い立たせているようでした。そんな思いにまでお母さんを駆り立てているのは、やはり亡くなったしんごっちの存在が大きいと思います。
しんごっちはたくさんの絵を描いていました。しんごっちの生きた証です。その生きた証があるから、今もしんごっちのことを楽しく思い出せる、だから今向き合っている子どもの生きた証も、何らかの形で残してあげたいとおっしゃっていました。ご両親は今はすごく大変だけれど、将来、きっと子どもの生きた証が両親を支えると思います、と自分の体験を交えながら話していました。
その人の生きた証は、その人が生きた意味をも語ります。
相模原障害者殺傷事件。犠牲になった方たちの生きた証が全く見えません。今朝の神奈川新聞では施設の閉鎖性についての記事がありました。こんなことが原因で犠牲になった方たちの生きた証が見えないのだとしたら、なんともやりきれません。
あの人はああだったよね、この人はこうだったよね、ってお互いが語り合えれば、それぞれの生きた証が見えてきます。そういったことができない雰囲気が、今、施設はあるのでしょう。なんともやりきれないです。
障がいがある人と一緒に暮らす社会について掘り下げて考えるためのトピックス集です。