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hanaちゃんの寝っ転がっている姿を見ると、 「あっ、だめだめ、そんなところに寝っ転がっちゃだめ!」 と、たいていの人は思います。そして寝っ転がらないように「指導」したり「支援」したりします。 昨年、ワークショップの助成金をもらったところで、お話を頼まれたとき、私の前の方が障がいのある子ども達の放課後支援をやっている方で、将来大きくなって社会に適合できるように「支援」しています、といったお話をしていました。社会に適合できるように「支援」する、といえば聞こえはいいのですが、「支援」される側にとってはどうなんだろうと思います。 障がいのある人たちは、社会にうまく適合できなくて、支援級や養護学校に行ったり、あるいは「ぷかぷか」のような福祉事業所に来ています。その人達を無理矢理社会に適合させるというわけです。そうなると、「支援」というのは、それをされる側にとっては、とてもつらいものになります。 ぷかぷかのメンバーさんでのべつしゃべりまくっている人がいて、何かの機会にそのおしゃべりをやめさせたことがあります。そうするととたんにその人は元気をなくし、「疲れた」という言葉を連発するようになりました。お母さんにも原因がわかりませんでした。おしゃべりをやめさせたことが原因じゃないかと、おしゃべりを復活させたとたん元気を取り戻し、元の彼に戻ったことがあります。彼にとっておしゃべりは自分を保つための大事な大事なしぐさのようなものだったのだと思います。 そういうことが想像できなかった自分を恥ずかしく思います。支援される側、弱い立場の側に立って世界を想像することこそ、私たちに求められていると思います。 いや、そもそも適合させる《社会》そのものはどうなんだ、という問題があります。本当にみんなが幸せを感じるような社会なのかどうか。みんなが自分らしく生きられる社会なのかどうか。そういう社会でないなら、それに適合させるってどういうことなのか…といったこと。 《hana基準》というのは、その社会そのものへの問いではなかったかと思うのです。だから「社会がhana基準になったら」というタイトルになっているのだと思います。 ameblo.jp ぷかぷかは障がいのある人たちのありのままの魅力で社会とのおつきあいを作っています。彼らを社会に合わせるのではなく、そのままの彼らに社会が出会って欲しいと思っています。社会が彼らに合わせる、というか、そうやって社会が彼らに合わせる方向に変わっていくと、お互いがもっと楽になるように思うのです。 彼らのありのままの魅力に出会い、「ぷかぷかのファン」になったり、「ぷかぷかが好き!」という人が増えたりする中で、ぷかぷかの利用者さんの保護者の方が、今まで「見当違いの努力」をしてきたんじゃないか、とおっしゃったことがあります。 《 恥ずかしながら何十年も克博の出来ないことをできるようにしよう、何とか社会に迷惑をかけないようにしよう、と見当違いの努力をしてきました。率直にいって、それが学校や作業所から求められてきたことだからです。》 「見当違いの努力」という表現は、この問題の本質を突いているように思います。「努力」はどっちを向いて、どういう世界を目指していたのでしょうか。本人はそれで幸福になったのでしょうか。 その涙ぐましい努力が「見当違い」だったと気がついたとき、お母さんも、本人も多分すごく楽になったのではないかと想像します。 先日の運動会では今までおつきあいのなかった人たちがこうやってhanaちゃんについていました。 hanaちゃんを支える手と、その手を信頼するhanaちゃんの手。 hanaちゃんが創り出す世界が見えます。