ぷかぷか日記

タカサキ日記

  • ぷかぷか基準
     hanaちゃんと一緒にパン屋をやりたいと研修に来られた花岡さんがすばらしいブログを書かれていましたので紹介します。 ameblo.jp hanaちゃんがパン屋で働く、というのは現実問題、かなりむつかしいなかで、それでも、 《 hanaのありのままを大切に子育てしていけば、おのずと道は開けて来る予感はしています。(正直云うと、予感というよりももっと強い感覚です。笑われるかもしれませんが、確信に近いです)  》 と書ききる花岡さんがすごいと思いました。確信の文字は赤になっていて、花岡さんの熱い思いというか「自信」を見た気がしました。これはhanaちゃんと一緒に生きることで、花岡さん自身と、まわりの世界が変わっていったことが「確信」という言葉のベースにあるように思いました。そういうものがなければ「確信」なんて言葉は使えません。  そこで思ったのは最近のぷかぷかを巡るまわりの動きというか、「hana基準」に相当する「ぷかぷか基準」に対するまわりの評価です。「ぷかぷか基準」というのは今思いついた言葉ですが、要するに「ぷかぷか」が一番大事にしているものです。  それはなんといっても「障がいのある彼らがありのままの自分でいられる」ということです。彼らを社会の基準に合わせるのではなく、彼らを基準にする、ありのままの彼らを受け入れる、その方が「得!」ということです。  「得!」というのは、私たちがそのことで豊かになる、ということです。ありのままの彼らの魅力に出会うと、ほんとうに心が癒やされます。心があたたかいもので満たされます。最近「ぷかぷかが好き!」という人が増えてきたのは、そういった彼らの魅力に気がついた人が増えたということだと思います。  ありのままの自分でいいんだよ、という「ぷかぷか基準」こそがぷかぷかの魅力を創りだし、こんなふうにして社会を少しずつ豊かにしているように思うのです。  そんな「ぷかぷか基準」で作られた「ぷかぷか」を、近々区役所の課長、係長クラスの人たちがなんと9名も見学に来るというのです。ね、世の中少しずつ変わって行きつつあるのだと思いますよ。  hanaちゃんのお母さんが「確信に近いです」と書いた気持ち、ぷかぷか5年目の今、すごくよくわかります。   これが「ぷかぷか基準」    
  • hana基準にあった働き方
     hanaちゃんのお母さんが、将来hanaちゃんと一緒にパン屋をやりたいと,今日、パン屋に研修に来ました。  hanaちゃんはとても障がいの重いお子さんで、一緒にパン屋をやると言っても、hanaちゃんには多分仕事はむつかしいので、そばに一緒にいるくらいしか現実的にはできないのかなと思います。それでも尚、hanaちゃんと一緒にパン屋をやりたい、と思うその「志」がすばらしいと思うのです。  hanaちゃんくらい障がいが重いと、養護学校を出たあとは生活支援の施設に行くのがふつうですが、そんなふうに決められた人生コースを歩むなんてつまんないじゃん、という思いがお母さんにはあるようです。決められた人生コースではなく、どこまでもhanaちゃんと一緒に自分の人生を生きるんだ、という熱い思い。エールを送りたいです。  重い障がいを持った子どもと一緒に人生を切り開いていこうとすれば、当然様々な困難が予想されるのですが、それにひるむことなく、むしろそれを楽しむかのように「一緒にパン屋やります」というお母さん。「世界がhana基準になったら」 ameblo.jp といったことを書くくらいのお母さんですから、一緒に働くことのイメージがひっくり返るほどのアイデアがひょっとしたら出てくるかも知れません。  hanaちゃん自身,こうやって寝っ転がっていることが多いのですが、   こうやってみんなと詩を読んだり、   お母さんと一緒に詩の発表を聞いたり   マツイさんに惚れ込んだり やるときはちゃんとやる人です。   hanaちゃんはまだ小学1年生。パン屋が始まるまでまだまだ時間があります。それまでにhanaちゃんがパン屋で働くってどういう感じかなぁ、とか、hanaちゃんがありのままの姿でいて、それでいてしっかり働いていることになるのはどんなときかなぁ、とか、みんなで考えれば、今までにない新しい働き方が出てくるのではないかと思ったりします。それこそ「hana基準にあった働き方」です。  もしこれがうまく見つかれば、障がいのある人たち、特に重い障がいを持った人たちのすばらしい希望になる気がします。決められた人生コースに乗るのではなく、子どもと一緒に自分の人生をクリエイティブに生きていこうと思っているお母さん、お父さんにとっても。  
  • 《得!》という言葉は侮れない
     「障がいのある人たちとは一緒に生きていった方が《得!》」といつも言っています。この《得!》という言葉が、この業界(?)にあってとても新鮮でした、と先日お会いした方に言われました。  この業界とは要するに福祉の業界ですが、誰かのために何かをやってあげる、ことの多い業界であり、それを《得!》だからこの仕事を始めた、という人は今までいなかったのではないか、というわけです。  だから「すごい」、とも言ってましたが、何で「すごい」のかはよくわかりませんでした。  《得!》という言葉は、自分の素直な感覚から出ているので、障がいのある人たちとのおつきあいに無理がありません。一昔前は「障がいのある人たちとは共に生きねばならない」とか「共に生きよう」という言葉がはやっていましたが、言葉の上では共感できても、実感としてついて行けないというか、かなり無理がある気がしていました。  そういう意味で《得!》という言葉は、養護学校で彼らと毎日おつきあいする中で実感した言葉です。以前にも書きましたが、養護学校の教員になって1年目、小学部の6年生を受け持っていました。クラスのみんなで1週間くらいかけて紙粘土で大きな犬を作ったことがあります。毎日毎日「大きな犬ができるねぇ」「楽しみだねぇ」「できあがったら名前つけてあげようね」とか言いながら、少しずつ犬ができあがってきました。  そうして完成した日、「ところでけんちゃんさぁ、これ何を作ったんだっけ?」と犬を指先ながら聞きました。こういう質問も養護学校では大事な勉強になります。  けんちゃんは一生懸命考えていました。 「え〜とね」「え〜と」「え〜と」…とものすごい時間かけて考え、 「そうだ、わかった、おさかな!」 と満面の笑みを浮かべて答えたのです。 もう笑っちゃったというか、大あたりぃ!かんかんかんかん…と鐘を100回くらいならしたいくらいでした。  彼らと過ごす日々には、そういったことがいっぱいありました。いつしか、彼らとは一緒に生きていった方がいいよな、得だよな、とごく自然に思うようになりました。  彼らと一緒に生きていく場として「ぷかぷか」を始める原点は、彼らと一緒に過ごしたこんな楽しい日々があります。  人生が楽しくなりました。人生が豊かになりました。生きることが自由になりました。そういったことを考えると、彼らとは一緒に生きていった方が《得!》というときの《得》の中身は天文学的といっていいくらいの《お得感》があるのではないかと思ったりするのです。彼らとは、ほんと,つきあわなきゃ損!ですよ。    そんなふうに言い続けて5年、「ぷかぷかが好き!」「ぷかぷかのファン」という人がだんだん増えてきました。「ぷかぷか」はそうやって地域社会を豊かにしているのだと思います。社会から疎外されている人たちのことを好きになるなんて、考えてみればすごいことだと思います。そういう人が増えることで地域社会は豊かになっていきます。  すべては《得!》という言葉から始まったものです。《得!》という言葉はだから侮れないなと思います。   料理しながらこんな遊びができてしまう彼らとは一緒に生きていった方が絶対に《得!》です。普通の人ではこんなことできません。ま、こんなこと突然始めたボランティアの木下さんも偉いのですが、それにすぐ乗ってきた彼らがいたからこそできたステキな時間だったと思います。これ昨日の料理教室です。      
  • ハロウィンの料理教室
    10月31日(土)ハロウィンの料理教室がありました。カボチャを使った料理教室です。カボチャのグラタンとカボチャのコロッケを作りました。 カボチャを蒸します。   ホワイトソースを作ります。     なぜかこんなことをやっているテーブルも   こうやって子どもたちも当たり前のように一緒に調理。「人権研修」などといったもの をする大人たちよりはるか先へ進んでいる。
  • むっつり大王
     第二期の「みんなでワークショップ」は谷川俊太郎の詩「生きる」を朗読することから始まりました。そのあと、それぞれの「生きる」の詩を書き、それをまとめて、みんなの「生きる」を作ったのですが、これだけでは芝居が立ち上がってきません。で、前回、一回目で書いた詩に対立するものとして「嫌なこと」とか「悲しいこと」で詩を書いたのですが、みんなが共有できる対立軸がなかなか見えてこなくて、どうしたもんか、と進行役をやっている演劇デザインギルドのせっちゃんと打ち合わせしました。      このクジラが対立軸を作るのに使えないかとも思ったのですが、1時間くらい話してもなかなかいいアイデアが出てきません。いや、いろいろアイデアは出てくるのですが、みんなを引っぱっていくだけの力のある物語がありません。う〜、困ったな、と思いながら、もう一度今回の詩の出発点に戻ります。  生きているということ、今、生きているということ、それは旅行に行くこと、映画に行くこと、ダンスをすること…、と、楽しいこと、うれしいことがずらっと並びました。それと対立するもの、みんなの思いをつぶしてしまうもの、それは何なんだろう、とあらためて考えました。  楽しいことが嫌い、うれしいことも嫌い、旅行も映画もダンスも大嫌い…そういう人はいつもむっつり顔、そうだ、「むっつり大王」っていうのはどう?って,カフェでお茶飲みながら、突然せっちゃんに聞いたのでした。  とにかく楽しいことやうれしいことが大嫌いで、生まれてこのかた一度も笑ったことがなくて、いつも「むっつり顔」。「木漏れ日がまぶしい」なんてうれしそうに言おうものなら、うるさい!そんなことはうれしくも何ともない!うれしそうな顔したこいつを逮捕しろ!なんてめちゃくちゃなことを言う「むっつり大王」なのです。  去年の『森は生きている』に,冬のさなかにマツユキソウが欲しい、などといいだしたわがままな王様が登場しましたが、「むっつり大王」はそれよりももっとたちが悪いというか、世界中から楽しいこと、うれしいことを奪い取ってしまいます。そして楽しいことがないので、みんな「むっつり顔」になってしまいます。  これに合わせて、ワークショップの中で、「むっつりの階段」というコミュニケーションゲームをやろうかなと思っています。横一列に7,8人並びます。いちばん端の人がちょっとむっつりした顔をします。その隣の人はその顔をしっかり見て、それよりももう少しむっつりした顔をします。その隣の人はその顔を見て、更にむっつりした顔をします。というふうに「むっつり顔」がだんだんエスカレートしていきます。最後はもう不機嫌が爆発しそうな「むっつり顔」になるというわけです。  その「むっつり顔」を今度は一人ひとり画用紙に描きます。どの顔がいちばん不機嫌かを争う「むっつり顔コンテスト」をやります。一等賞を取った顔をモデルに「むっつり大王」の巨大な人形を作ります。これは人形劇団「デフパペットシアターひとみ」の人たちに協力してもらいながら、高さ3mくらいの大きな人形を作ろうかなと思っています。不機嫌のオーラを辺り一面にばらまく「むっつり大王」の誕生です。  世の中から楽しいこと、うれしいことがことごとくなくなり、みんなむっつり顔になります。そのときにそれぞれが描いた「むっつり顔」の絵をお面にして顔につけます。  さて、「みんなの生きる」の詩にある楽しい世界が「むっつり大王」によって全部つぶされてしまった今、私たちはどうすれば元の楽しい世界に戻れるのか、どうすればむっつり顔から笑顔に戻れるのか、それが今回のワークショップのテーマになります。  「むっつり大王」をやっつけてしまえば、元の世界に戻れるのですが、暴力的に倒すようなことはしたくないなぁ、と思っています。もっとエレガントな方法というか、そもそもどうして「むっつり大王」などという勝手きわまる大王が現れたのか、谷川俊太郎の詩「生きる」の世界を阻害するような要因が、やはり今の社会にはあるのではないか、といったこと。そこを少し丁寧に見ていくような解決方法が探れないものかと考えています。  最近「ぷかぷかが好き!」とか「ぷかぷかのファンです」という人が増えているのも、結局のところ、社会がだんだん息苦しくなっていることが背景としてあるのではないかと思います。だからぷかぷかに来るとホッとしたり、癒やされたり、といったことがあるのではないか、というわけです。だとすれば彼らの存在そのものが、この息苦しい社会を救うことになります。  わんどにいる二頭のクジラさんにも登場してもらおうかと思っています。クジラが「むっつり大王」に体当たりしてみんなを救う、といった単純な話ではなく、青い空を大きなクジラがゆったり飛ぶと何かが起こるような、そんな物語です。   よく晴れた朝、こうやって大きなクジラがゆったりと空を飛ぶ日、街にはきっと何かが起こる気がするのです。むっつり大王の弱みにつながる何か、それをみんなで捜そう、というわけです。    と、「むっつり大王」を思いついてから一気にここまで書きましたが、ワークショップは多分思い通りには生きません。思い通りに行かないからこそおもしろいし、思ってもみない新しいものが出てきます。ただその過程は、とてもしんどいものになります。そのしんどさがみんなを磨きます。  とりあえず、この構想を元にせっちゃんにシラバス(ワークショップの進行プログラム)を作ってもらいます。                                                                                                                              
  • 緑区役所のロビーの壁に
     先日の緑区民まつりの地産地消ブースの横の壁いっぱいに張り出した地産地消サポート店マップが高く評価され、緑区役所のロビーの壁に展示されることになりました。    で、今日原画を区役所に持って行きました。   これを区役所入り口正面の壁に貼ります。   そのまま貼ったのではすぐに痛んでしまうので、表具屋に頼んでパネルにするとか、裏にボードを貼るとか養生してもらった上で展示するそうです。   こんな絵が区役所のロビーに貼ってあるなんて、なんかすごく楽しいなって思うのです。 十日市場駅の近くでサイが歩いていたり 中山駅の近くに羊がいたり 鴨居駅の近くではイルカが泳いでいたり   みんな好き勝手に描いたのですが、なんだか楽しい世界がここにはあります。    パン屋やカフェにメンバーさんの絵を飾ったり、アート屋わんどを開いたのは、メンバーさんの絵が私たちの心を癒やしてくれるからです。「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいよ」というメッセージを彼らの絵を通して伝えたいと思っているからです。そんな思いが区役所のロビーに飾られる、という形で実現し、とてもうれしく思っています。  これが、障がいのある人たちの描いた絵だから飾ってあげる、というのであれば、すごく嫌な気分になるのですが、今回はブースの横に貼ってある絵をひと目見て、「すばらしい、ぜひ区役所のロビーに飾りましょう」と言って下さいました。  区役所に来た方が、絵の前で心和ませ、「ひゃ〜、楽しい!」とか、似顔絵を見て「このお店行ってみたい!」って言ってくれるといいなと思っています。  この絵は、区役所にやってくる人たちの心を癒やし、豊かにしてくれます。またひとついい仕事ができたな、と思っています。  そうそう、今日、区役所の人権に関する研修会の講師を頼まれました。この絵を切り口にお話ししようかな、と思います。こんな絵を描く人たちとは絶対いっしょに生きていった方が絶対得ですよ、って。  会議室とかじゃなくて、この絵の前で絵を囲むような形でみんなが思ったことを言い合って、そこから話が発展していくような研修会やったら、私が一方的にしゃべるような研修会よりもはるかにみんなにとって意味のあるものになると思います。あっ、おもしろい、これがいい、これで行こう!って言ってくれる人が区役所の中で出てきてくれないかなぁ、と思っています。    今回の絵の展示を最初に提案して下さった区政推進課の課長さんが似顔絵をすごく気に入って下さって自分の名刺に使うそうです。画伯の描いた絵がこんなふうに社会のあちこちに広がっていけば、また何かおもしろいことが起こりそうな予感がしています。
  • 悩むおじさん
     近所のおじさんことオーヤさんから第2回ワークショップの感想が届きました。普通のおじさんは体を動かすことなんてふだんやらないので、なかなか大変だったようですが、少しずつからだが動き始めたようでした。 ●●  先回、ミラーゲームで体を自由に動かすことに、はずかしさや抵抗がありましたが、今回は先回より自由に動かすことができて楽しかったです。 動くことができたのは、みなさんが自由に動かしているところを見て、こんな動きでもいいのかと思い、もう少し思いのままに動いていいのかと思えたからです。皆さんに感謝です。 ●●  こんな感じで体が動くようになったのです。こんなふうに体が動くことで、オーヤさんは、自分の体について、日々思っていることについて、人生について、新鮮ないろんな発見があったようです。  たまたま2月の発表会の直前が仕事でどうしても来られないといいだし、どうしようか悩んでいるようでしたので、悩むくらいなら仕事休んできた方がいい、とはっきり言いました。仕事仕事で、自分の人生なんかどこかへ置き忘れているような会社生活を送ってこられたのだろうと思います。今回ワークショップに参加することで、思いがけず自分の人生について振り返る機会にもなり、ワークショップがだんだん楽しくなってきました。発表会の舞台に立つこともとても楽しみにしているのですが、直前のワークショップに仕事で参加できないかも、と悩んでいます。  多分今までだと、考えるまでもなく仕事仕事でやってきたのだろうと思います。でも今回ワークショップに参加して、そのあたりが少し揺らいだ、というか、自分の人生こそが大事、みたいなことが少し見えてきたようで、だからこそ仕事をどうするか、すごく悩んでいるようでした。  人間は悩むことで成長します。オーヤさん、大いに悩んで下さい。きっと新しい人生が開けますよ。  
  • これこそがhanaちゃんの言葉じゃないかって
     みんなでワークショップ第二期では、みんなに詩を書いてもらい、それを合わせて「みんなの生きる」という物語を起こそうと思っています。前回、hanaちゃんの思いも入れたいと思い、お母さんにお願いしました。できあがった詩がこれ。「まだ眠いのに無理矢理起こされて学校へ行かされること」「どうせわからないと思われて話しかけてくれないこと」 な〜るほど、なんて思っていたのですが、 これはお母さんの思いに過ぎなくて、hanaちゃん自身は別になんとも思ってないんじゃないかってお母さんがブログに書いています。  すごくおもしろくて、深〜い考察です。 ameblo.jp  hanaちゃんといっしょに生きてると、人生についての思いがこうやって深くなるんだなぁって思いました。hanaちゃんてなんにも言わないんだけど、周りの人たちに深い言葉をいっぱい語らせるんですね。これこそがhanaちゃんの言葉じゃないかって思いました。
  • 葉っぱの物語−2
     年取ったせいか、葉っぱの写真を撮ってると、その葉っぱの人生のようなものが見えて、いとおしくなってしまいます。  地面の上に落ちた葉っぱは土に帰りますが、舗装された道路に落ちた葉っぱはゴミ扱いされ、燃やされてしまいます。なんだか悲しいですね。
  • 講演会を頼まれました−1
     瀬谷養護学校のPTAから講演を頼まれました。何をどんな切り口で話そうか、今思案中です。 通り一遍の事業所の説明をしてもつまらないし、やっぱり話を聞いて新しい発見があったり、元気が出たり、希望が持てたりした方がいいと思うのです。そのためにはどんな話がいいのかを考えているのですが、最近見学に来られた方で一番多い反応は、「こんな明るいところがあったんですね」とか「気持ちが楽になりました」と笑顔になられることです。何かから解放されたような笑顔がいつも印象に残ります。  笑顔を作り出すのは,やはり「ぷかぷか」の「空気感」ではないかと思います。「みんな明るい」「楽しそうに働いている」「ホッとする雰囲気」「癒やされる」といった言葉で表現されるものが合わさってできる「ぷかぷか」の「空気感」。これが見学に来た方を笑顔にするのだろうと思います。  では、この「空気感」はどこから生まれるのでしょう。それはいろんな要素が組み合わさっていると思いますが、「彼らがありのままの自分でいられること」つまり「管理しないこと」、「仕事が本物であること」などがあげられると思います。  具体的にはこんなことがありました。    カフェを始めるとき、接客の仕方がわからないので、講師を招いて接客の講習会をやりました。2時間くらいの講習でしたが、確かにいわれたとおりにやれば、それなりに上手な接客ができます。  「いらっしゃいませ」「お待たせいたしました」「かしこまりました」「少々お待ちください」「申し訳ございません」「恐れ入ります」「ありがとうございます」「失礼します」という接客用語を、手を前にそろえ、繰り返し、繰り返し練習しました。すごく上手な接客ができるような気がしたのですが、実際にぷかぷかのメンバーさんが一人ひとり口にすると、なんか変というか、ちょっとちがうよな、という気がしました。  上手な接客なのに、この違和感は何なんだろうと思いました。けんちゃんが手を前にそろえ、「お待たせしました」「かしこまりました」っていうと、立派な社会人らしく聞こえました。でも、何度もよ〜く聞いてみると、すごく無理してるというか、背伸びしすぎて、けんちゃんのいいところが全く感じられない気がしました。けんちゃんじゃないみたい、というか、要するに、決まり文句を言わされてるだけで、けんちゃんというかけがえのない存在はどこかへ行ってしまっているのです。けんちゃんという存在よりも、決まり文句の方が大事であり、それが正しい接客だというのです。  いくら正しい接客でも、これはもうやめようと思いました。私は彼らに惚れ込み、彼らといっしょに生きていこうと「ぷかぷか」をはじめたのですが、彼らのいいところや個性が出せないのであれば、彼らといっしょにぷかぷかをやる意味がなくなるからです。  それで講習会は一回でやめました。このときの「なんか変」と思った直感が、今の「ぷかぷか」の「空気感」を形作っていく出発点だったように思います。そしてこの「空気感」こそが、ぷかぷかにしかない大きなかけがえのない「価値」だと今思っています。  彼らのいいところをそのまま生かす、持ち味を生かす、ということは、こちらがとやかく言わずに、彼らに任す、ということです。言い換えれば「彼らがありのままの自分でいられる」環境を作り出すということでした。彼らを社会に合わせることを良しとし、そのことの努力を半ば強いられる世の中にあって、画期的な試みであったとも言えます。(このことについてはまた稿をあらためて書きたいと思います)  接客の話を続けます。   「お客さんに不愉快な思いをさせない」というルールだけ守ってもらって、あとはそれぞれのやり方でやってもらうことにしました。一般的な接客のイメージからすれば、お世辞にも上手とは言えない接客です。管理しないので、普通に考えればあり得ないような接客もあります。でもそれ故に強烈な出会いをした方がいました。    ウィルスに感染したと表現するお客さんの話です。    子供2人を連れてカフェでランチを食べていました。お客さんは私の家族と他にもう一組だったかと思います。 お天気も良く明るくゆったりとした空気の中で 「おいしいねー」 「もう1回チョコパンとチーズのパンおかわりしたい」 などと子供と話をしていました。  そしたら厨房の小窓のカーテンが急にシャッ!と開き、ニコニコ笑顔にマスクの方が 「おいしいかい!?」 と聞いてきました。  一瞬何が起こったのかわかりませんでしたが、とっさに 「美味しいです!」 と負けじと大きな声で答えました。  その方は、そうだろうと言わんばかりにニコニコのまま 「フフ〜ン」 と笑い、カーテンを閉めました。   多分10秒程のできごとでしたが、この思ってもみない楽しいやりとりで、また食べに来ようと思いました。  ぷかぷかウィルスに感染したのは、多分この時だと思います。    これがきっかけでその方はぷかぷかパン教室に来るようになり、いろいろお話をし、今はスタッフのひとりとして毎日彼らと一緒に楽しく働いています。  「ウィルス」という言い方がいいですね。そうとしかいいようのないものが「ぷかぷか」にはあるのだと思います。  「ぷかぷかのファンです」とおっしゃるお客さんが最近増えていますが、こういう方も多分ウィルスに感染したのではないかと思います。    にしても、「おいしいかい!?」のひとことで、お客さんの心をわしづかみにしてしまうなんて、ほかの誰にもできないすばらしい接客だと思いました。   「おいしいかい!?」      「おいしいかい!?」なんて言う言葉も、管理していない環境だからこそ、ぽろっと出てきたのだと思います。普通はお客さんに向かってこんな言葉は使いません。  でも、そのとき、厨房にいたマツイさんはお客さんがあんまりおいしそうに食べてるので、なんだかうれしくなって、ついカーテンをシャッとあけ、ニカーッと笑いながら 「おいしいかい!?」 なんて言ったんだろうと思います。聞いたお客さんも、 「え?!」 とか思いながらも、マツイさんの投げかけた言葉の、なんとも言えないおかしさ、あたたかさに、クスッとしながら、負けずに大きな声で 「おいしいです!」 って、応えたんだろうと思います。マツイさんは、そうだろうといわんばかりに 「フフ〜ン」 と笑い、カーテンを閉めたようです。  その余韻の中で、お客さんは 「また来よう」 って思ったというのですから、おもしろいですね。この一瞬のやりとりで、ぷかぷかのウィルスに感染してしまったとお客さんは言ってました。    こういう思ってもみない、全く想定外の、楽しい、あたたかな出会いは、管理された空間からは絶対に生まれません。  もちろんこの一瞬のやりとりがいつもうまくいくとは限りません。事実カフェのお客さんで利用者さんの言葉に不愉快な思いをしてクレームをつけた方もいます(「よく食べますねぇ」と正直に感想を言っただけなのですが、お客さんにとっては気に触る言葉だったようです)。でも、だからやはり管理が必要だ、というのではなく、そういったリスクを抱え込みながらも,なお、彼らの持ち味を生かすお店、彼らの持ち味にふれ、お客さんの心がキュ〜ンとあたたまるようなお店にしたいと思うのです。      カフェのお客さんで「彼らの接客にふれると心が癒やされます」とおっしゃる方が最近えているのですが、私にとっては思いもよらない評価の言葉でした。彼らの個性をそのまま出した、それほどうまくもない接客がお客さんの心を癒やしている、ということ。これは彼らの立ち居振る舞いがそのままお客さんの心を癒やしている、ということになります。  それはどうしてなんだろう、ということを私たちはきちんと考えておく必要があると思います。障がいのある人たちは「なんとなくいやだ」「怖い」「何をするかわからない」といった形で、社会から締め出されていることが多いなかで、どうしてぷかぷかだと心を癒やしてくれる存在になるのか、ということです。そのことをきちんと考えていくことは、お互いがもっと生きやすい地域社会がどうやったら実現できるかにつながっていくと思います。    カフェだけでなく、パン屋、外販、お惣菜屋、すべて接客は利用者さんにお任せしています。マニュアルがないので、みんな自由にのびのびと接客をしています。その雰囲気がお客さんの心を癒やしているようです。  区役所の外販でぷかぷかが一番お客さんを集めているのも、みんな楽しそうに仕事やっているからだと思います、と区役所の方がおっしゃっていました。楽しく仕事をする、ということが仕事をする側にとってはもちろん、お客さんにとっても、とても大事なことがよくわかります。    きちんとマニュアルに沿って正しい接客をさせている(しっかり管理している)福祉事業所のパン屋、カフェに行ったお客さんが  「ぷかぷかに来るとなんだかホッとするわ」 とおっしゃったことがありましたが、管理されたお店は、お客さんにとっても息苦しいのだと思います。 「なんだかホッとする」 という言葉こそ大事にしたいと思うのです。そういう空間を彼らは自然に作り出してくれます。そのことをどこまで信頼し抜くか、だと思います。  そして、この「なんだかホッとする」という感覚こそが、ぷかぷかが地域の人たちにとって大切な場になっている理由だと思います。裏返せば、「ホッとする」ような場所が地域社会になくなっているのだろうと思います。異質なものを排除したり、管理することばかりが優先する社会にあって、みんな息苦しさを感じているのだと思います。そんなことを考えると、社会には何が大切かを、さりげなく「ぷかぷか」は提案しているのではないかと思います。    いずれにしても「ぷかぷか」の「空気感」がどこから生まれているのかを少し感じ取っていただけたのではないかと思います。      
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