ほっとけない、と思ったのは、人としてそこに立ってしまったから
私たちにとって、平穏な一日は、なにもしなくても当たり前のようにやってきます。今日も、明日も、明後日も。でもそうじゃない人がいること、日々、必死になって努力をしないと、その「平穏な一日」がやってこない人がいること、そのことに先日あらためて気がつきました。 統合失調症の方を家族に抱えるご両親の話を聞く機会がありました。日々大変な思いでお子さんに向き合っておられることが痛いほどわかりました。今日、平穏な一日をどうやって作り出すか、ただそのことだけに全力を注いでおられることが、言葉の端々からビリビリ伝わってきて、本当に頭が下がりました。 もうほっとけない気がしました。ご両親の抱えている苦労の百分の一でもいい、背負い込めるものなら背負い込んでいこうと思いました。支援とか、そんなレベルの話ではありません。そばに寄り添って、お父さんとお母さんの抱えている苦労を、ほんの少しかもしれないけれど、背負い込んでいこう。そう思いました。 今日、あなたが笑顔でいると、ただそれだけで嬉しい。 今日、あなたが不機嫌な顔をしていると、ただそれだけで悲しい、辛い。 どうしたらあなたが笑顔でいられるのか、 必死になって考える。 いろいろやってみる。 あなたの笑顔が出るまでやってみる。 ただそれだけ。 それだけのために一日があるような、 そんなおつきあいをあなたとしたい。 ほっとけない、と思ったのは、人としてそこに立ってしまったから。 いや、そういう思いが、人としてそこに立たせた、といった方がいいかもしれません。 一緒に生きていく、というのは、人として相手のそばに立つ、ということ。 障がいのある人たちは、そのようにして、私たちを人にするのだと思います。 人であることを思い出させてくれるのかもしれません。