NPO法人抱僕の発行する「ほうぼくサポーターかわら版NO.20に載っていた「THE FUTURE TIME 対談 後藤政文×奥田智志」はすばらしい対談でした。
http://www.thefuturetimes.jp/archive/houboku/index.html
中でもやまゆり園事件に関する奥田さんの見解は、あらためて頷けるものがたくさんありました。
社会の何があの事件を引き起こしたのか。
役に立つ人間なのか、という判断基準が頑としてこの社会にはあります。抱僕はホームレスの人達との関わりに中で、
「あなたが生きていること、そのこと自体がすばらしい」
といいます。役に立つとか立たないではなく、生きてることそのものがすばらしい、と。
「あの相模原事件の植松君にも会いに行きましたけども、あの植松君と会ってしゃべった時も、彼を全然擁護する、やったことを擁護する気はないけども、ひどいことをしてるわけですから、駄目なことは駄目だけども、やっぱりね、あの人の発想の中に時代の中で生きてきた人の感覚を見るんですね。彼だけが特異な異質なものじゃなくて、やっぱり時代の子だなと思うんですね、『意味がない命』とか言っちゃうのは」
私たちは、あの事件のあと、そういった問題を自分の問題としてどれだけ掘り下げたのだろうと思うのです。『意味がない命』と、ふと思ってしまったことはないのか?
「彼自身がたぶん言われてきたことであろうし言ってきたことなんだろうと。こっちの自分とあっちの自分は、どこか重なってるように、拘置所で会った時にすごく感じましたね。面会の最後に、『君は役に立たない人間は死ねというのか』といったら、そうだと言うから、『じゃあ君に聞くけども、君はあの事件の前、役に立つ人間だったのか』と聞いたらね、彼、ぐっと考えてね、『僕はあまり役に立ちませんでした』って答えたんです。その答えを聞いて、ああ、この人も、あの自分が発した『意味のない命』という言葉の中に生きてきて、その意味のない命なのかという問いの中におびえてきた1人なんだろうなって。だからといって、あんなことをするかといったら、してはいけないんだけど」
生産性という評価に私たちはどれだけ振り回されているのだろうと思います。そういう社会があの事件を生み出した、ということ。そのことの痛みをどれだけ私たちは自分事として感じたのか。
「ああいう犯罪が起きた時に、少なからず本人の資質もあるでしょうけれども、社会がある種、育ててしまったというか、育んでしまった思想や思考でもある。だから自分は無関係だとはいつも思えないんです」
どこかで植松を突き放していた自分。そうではないと、あらためて思う。
「たとえヒットラーであろうと、やっぱり時代が生み出していった面というのは、あると思うんです。彼だけが特異な存在。まあ特異ですよ。非常に特異だけど。でも、じゃあ全く同じ時代じゃない全然違う土地、時代、違う歴史の中に彼が生まれて、あの結果になるかというと、ならないんじゃないかなという。まあ何か、そのあたりでいうと、本当に社会のあり方をもっと考えないと非常にまずいところにきていると」
非常にまずいところにきている。この言葉の重さをしっかり受け止めていかないと、またあのような事件は起きる。実際、施設での信じがたいほどの虐待が事件後もずっと続いている。
「あの相模原の事件も、そもそも論として、命そのものには価値を見いだしてないんですよね。そこに生産性が伴うかとか、それが何を生み出したかというところに価値を見いだそうとしてる。だから、あの植松君も裁判の中で、ぺろっと、こんなこと言うんですね。『もし自分が歌手か野球選手だったら、こんなことしてない』って。要するに、今の自分には価値がないって彼は自分自身、思い込んでるわけで。生きてるだけじゃ駄目なんだと。だから、やっぱりみんなからちゃんと評価されるような、大谷さんみたいにならないと駄目だし。もしなっていたら、こんな事件してないと言うんですよ。そうなると本当に、あれヘイトクライムでも何でもない。彼のゆがんだ自己実現の中から起こっている事件なんですよ」
ゆがんだ自己実現が起こした事件。どうしてそこまでゆがんでしまったのか。そのゆがみに、私は関与していないのか。