ショーへーさんの、 なんともやさしい気持ちになれる絵です。
ショーへーさんのやさしい気持ちがとてもよくわかります。みんながこんな気持ちになれれば、世界はもっと平和になるのに、と思います。
演劇ワークショップをやっていて、ぷかぷかさんたちの深いやさしさに気づいたことが何度かあります。
第一期演劇ワークショップでは『森は生きている』を創りました。その中で森にやってきたわがままな女王たちをどうやってやっつけるかという作戦を練ってもらったことがあります。いくつかアイデアは出てきたのですが、みんなふにゃふにゃというか、女王たちをやっつけるだけのチカラがいくらやっても出てきません。どうしたものかと悩みました。
終わってからの進行サイドの反省会でピアニストの安見ちゃんが
「みんな悪意がないんだよね」
とぼそんといい、そうか、これだ!と思いました。
誰かをやっつける物語は、そのいちばんの元に「悪意」がないと成り立ちません。ぷかぷかさんにはそれがないから、誰かをやっつけるというようなアイデアがなかなか出てこないのではないか、というわけです。
誰かが大事にしているものを取り上げて意地悪をする物語をやった時も、取り上げたものを簡単に返してしまい、意地悪することで成り立つ物語が全く成立しないこともありました。結局ここも悪意がないので意地悪ができないのだと思いました。
悪意がない、言い換えればぷかぷかさんの深いやさしさを見た気がしたのでした。
芝居の最後、わがままな女王たちをやさしく懲らしめ、「いっしょに歌おうよ」と呼びかける。わがままな人間たちと、12月(つき)の神様たちが共存していく呼びかけです。
第2期演劇ワークショップでは谷川俊太郎の詩『生きる』をたたき台に、『みんなの生きる』という物語を創りました。芝居の中に緊張感を作るために、みんなが生き生きと生きるその一番の幸せをぶち壊す「むっつり大王」をお話の中に持ってきました。不平、不満、イライラ等、マイナス感情の塊を象徴する「むっつり大王」です。芝居がいちばん盛り上がるのは、その「むっつり大王」との闘いです。
どうやってやっつけるのか。進行サイドでいろいろ考えている時に、「むっつりに感染しない人たちもいるんじゃないか」という意見が出ました。ぷかぷかさんたちのことです。ワークショップの中で「むっつりの感染」というゲームをやった時、瞬く間に「むっつり」が広がっていきました。ところが、ぷかぷかさんのまわりで、どうもその「むっつり」があまり広がっていかないのです。
「むっつり」は様々な不平、不満、イライラから生まれます。慎ましく自分の人生を楽しんでいる彼らには、そういう気持ちがほとんどありません。彼らこそ、この「むっつり」に覆われた世界からみんなを救い出すんじゃないか、と思いました。
「いらいらした気分でどうしようもなくなったときや落ち込んだとき、ぷかぷかに行くとなぜか救われた気分になるんです」とワークショップの中でおっしゃった方がいました。
これだ!って思いましたね。これが「むっつり大王」を退散させるんだと思いました。
ショーへーさんはふだん仕事が終わると必ずお母さんに電話し、今日はこんな仕事をしました、と報告します。ワークショップの時はその日歌った歌を電話口で歌います。
「もしもし、ショウヘーです、きょうはぁ ♪ おひさまーが りんごのー はっぱをとおして ひーかる おひさまーが りんごのー はっぱのかげをつーくるー…… ♪ と歌いました。たのしかったです、おしまい」
そばで電話を聞いていて、ほのぼのとあたたかい気持ちになりました。この電話にはショーへーさんのやさしさが詰まっていました。この電話で「むっつり大王」を退散させる筋書きを作りました。
舞台。世の中の「むっつり」がどんどん増えていってその集合体「むっつり大王」がぐわ〜んと最大限大きくなった時、舞台は暗転。スポットライトの中でショーへーさんがお母さんに電話をかけます。
「むっつりのお面」がどんどん増えて「むっつり大王」に
ショーへーさんにスポットライト
ショーへーさん始め、何人かのぷかぷかさんがそれぞれの持ち味を生かし、あたたかな小さな物語を披露しました。「むっつり大王」は「な、なにをするんだ、どうしてお前たちそんなに楽しいんだ…」といいながら退散します。
演劇ワークショップの中では、何度も彼らのやさしさ、楽しさ、心のあたたかさに救われました。実社会においても、私たちが彼らのそういったものに気づき、それを社会の中で生かせるような仕組みを作れば、今の息詰まるような社会はもう少し呼吸が楽になるような気がするのです。
あれができないこれができない、だから支援が必要な人たち、と見ている限り、彼らが持っている深いやさしさは見えません。こんなに素晴らしいものを持っているのに、それが見つけられないのは社会的な損失です。
必要なことは彼らと人としてきちんと向き合うことです。そこで見えてくるものを社会の中で生かすことです。