やまゆり園でまた虐待。
法人の体質が、事件後も全く変わっていないのだと思います。
事件からちょうど1年目に再開したやまゆり園のホームページには10行ほどのあいさつがあり、そのうち事件に関しては次の2行だけでした。
昨年7月26日、津久井やまゆり園で起きました事件から一年になります。今まで多くの皆様にご迷惑やご心配をおかけしてきたところでございます。
19人もの人が殺されたというのに、なにこれ、って思いました。
全く知らない人たちではありません。やまゆり園を利用していた人たちであり、まさに日々生活を共にしてきた人たちです。その人たちが亡くなったというのに、悲しみのかの字もありません。驚きましたね。人として一番大事な感覚を持ち合わせてないのではないかと思いました。
人が亡くなる、ということに対して語るべく言葉がない、語るべく気持ちがない。人の心を失っているのではないかと思います。
亡くなった人たちと人としておつきあいしていれば、語るべく言葉がない、あるいは気持ちがない、といったことはあり得ません。
法人のこの感覚にこそ事件の一番のおおもとがあるように思います。
人を人として見ない。人としてつきあわない。
社会福祉法人には、NPO法人よりもはるかに大きい社会的責任があります。あれだけの事件がなぜ起こったのかについて、現場の運営責任者として説明責任があるはずです。それにもかかわらず、わずか2行の他人事のような書きぶり。元従業員が犯した犯罪に対する雇用者としての謝罪も一切ありませんでした。
社会福祉法人に対する監督責任のある神奈川県に、
「こんなことが許されるのか」
と問い合わせました。ところが、この件に関してはすべて法人に任せています云々の、これまた無責任極まりない回答でした。
グルなんだと思いましたね。
事件の検証委員会による報告書は防犯上の問題ばかりで、一番肝心な犯人が支援の現場でどのように利用者さんたちに関わっていたのか、といった問題についての記述は一切ありませんでした。どう考えても不自然な報告書でした。
神奈川県とやまゆり園にとって
「不都合な真実」
があったのだと思います。
それを削除した。そしてその先に、事件の責任をすべて植松に負わせる動きがあったのではないか。
ふつうに考えたら、これは、ものすごく恐ろしいことです。しかも、そういったことが何ら問われることもなく、今も存続しているのです。
少し古い記事ですが、植松に関する新事実の書かれた大事な内容なので添付します。植松は福祉の現場で真面目に働く青年であったことの事実は、事件の見方を大きく揺さぶります。
いずれにしても、人を人として見ない体質がずっと残っていて、今回明るみに出た虐待も、その延長線上にあるのだと思います。
で、私たちはどうするのか。これはやまゆり園だけの問題なのかどうか、ということです。
福祉の現場で、相手と本当に人としてつきあっているのかどうか。
そこが今あらためて問われている気がするのです。