相模原障害者殺傷事件が起きて5年になります。あれだけ衝撃的な事件だったので、社会は本当に変わるのではないかと思っていましたが、5年目の今、結局は何も変わってないな、というのが実感です。そのモヤモヤした気持ちを少しずつ書いていこうと思います。
神奈川県では当事者目線により福祉に切り替えるそうですね。これも事件を受けて出てきたそうです。ようやくここまで来た、と評価する声もたくさんあります。
議事録も載っていましたが、私にとってはなんだかむつかしそうな話で、とても読む気になれません。大事な話だとは思いますが、こういう話をやって社会は変わるのだろうかとも思います。それよりも、目の前の当事者の方とどんなおつきあいをしていくのか、そこから何を生み出していくのか、というところこそ現場の人間としては大事にしたいと思うのです。
昨日たまたまイクミンが素晴らしい絵を描いているのを見つけました。
「え?これが猫?」
「そうです」
「なんでこれが猫なの?」
「なんでって、これ、猫ですよ」
右側の猫の写真を見て描いたそうですが、イクミンの頭を通り抜けると、左のようなカラフルな猫に変わるみたいです。
「こんなの猫じゃないじゃん」
というのが、多分一般的です。「指導」とか「支援」はそういう方向性を持っています。以前教員をやっていた私もそうでした。猫はこうやって描くのが正しいなんてことを「指導」していたのです。でも、子どもたちと関わる中で、子どもたちの作り出すものの方がはるかに楽しいことに気がつきました。その気づきは、自分の中にある「正しさ」を問い直すことでもありました。
以前も書いたことですが、養護学校の教員をやっていた頃、こんなことがありました。クラスのみんなで一抱えくらいある大きな犬を紙粘土で作ったときのことです。小学部の6年生です。何日もかかって作り上げ、ようやく完成という頃、けんちゃんにちょっと質問してみました。
「ところでけんちゃん、今、みんなでつくっているこれは、なんだっけ」
「あのね、あのね、あの……あのね…、え〜と、あのね…」
と、一生懸命考えていました。なかなか答えが出てきません。
「うん、さぁよく見て、これはなんだっけ」
と、大きな犬をけんちゃんの前に差し出しました。けんちゃんはそれを見て更に一生懸命考え、
「そうだ、わかった!」
と、もう飛び上がらんばかりの顔つきで、
「おさかな!」
と、思いっきり大きな声で答えたのでした。
一瞬カクッときましたが、なんともいえないおかしさがワァ〜ンと体中を駆け巡り、思わず
「カンカンカン、あたりぃ! 座布団5枚!」
って、大きな声で叫んだのでした。
それを聞いて
「やった!」
と言わんばかりのけんちゃんの嬉しそうな顔。こっちまで幸せになってしまうような笑顔。こういう人とはいっしょに生きていった方が絶対トク!、と理屈抜きに思いました。
もちろんその時、
「けんちゃん。これはおさかなではありません。犬です。いいですか、犬ですよ。よく覚えておいてくださいね。い、ぬ、です。わかりましたか?」
と、正しい答をけんちゃんに教える方法もあったでしょう。むしろこっちの方が一般的であり、正しいと思います。まじめな、指導に熱心な教員なら多分こうしたと思います。
でも、けんちゃんのあのときの答は、そういう正しい世界を、もう超えてしまっているように思いました。あの時、あの場をガサッとゆすった「おさかな!」という言葉は、正しい答よりもはるかに光っています。
事件の犯人が、障がいのある人たちとこんな出会いをしていれば、あんな惨劇は絶対におきなかったと思います。
「おさかな!」という言葉に出会った時、なんかもううれしくてうれしくて私はけんちゃんを抱きしめたいくらいでした。養護学校の教員になって1年目。重度障害の子どもたちを相手に毎日のように想定外のことが起こり、私の頭はもうどうしていいかわからず混乱していました。そんな中で「おさかな!」という言葉は目が覚めるほどの輝きを持っていました。
犯人は毎日障害のある人たちとおつきあいしながら、どうしてそんな出会いをすることができなかったのかと思います。そこを考えることはとても大事なことです。このことについては、また別の機会に書きます。
今日紹介したイクミンの絵は、社会を覆う「正しさ」について、とても大事な問題提起をしていると思います。あのカラフルな猫の絵を見てあなたはどう思いますか?