おもしろい本読みました。浜松にあるレッツというおもしろい事業所の話です。新しい福祉というのか、いや、もう福祉という言葉では語りきれない、もっともっと幅の広い、とんでもなくおもしろいものがここにはあります。
重度障がいの人たちとひたすら一緒に楽しいことをやる。そんな日々を積み重ねると、こんなに楽しいホームページができるのです。
もう見ただけで、なんだかわくわくしてしまいます。一応生活支援の事業所ですが、どこが?という感じ。新しい文化の発信基地ですね、ここは。重度障がいの人たちと一緒に作り出す新しい文化。ダイナミックで、泥臭くて、楽しくて、なによりもめちゃくちゃ元気な文化。
「折々のことば」の鷲田清一さんの言葉を借りると
《ここに来ると、なんだか楽しくなって、「支援」という言葉が窮屈に思えてくる。》
障がいのある人たちとのびっくりするほど自由な関係。だから新しい文化がここから生まれる。
ここでの自由な関係に比べると、「支援」という関係は、なんて不自由なんだろうと思う。窮屈極まりない関係。だから、そこから新しいものなんて生まれない。せっかくいっしょにいるのにもったいないではないか。
にもかかわらずその「支援」という関係から自由になれない福祉の業界。困ったものだと思います。
「支援」から自由になれば、こんなに楽しいことができる、とレッツのホームページは言っている。
人生、楽しいことやらなきゃソン!だと、あらためて思う。
レッツの代表 翠さんの言葉がいい。
《我が子といえども成人したたけしの人生を私は考えたくない。それはたけしのまわりの人たちが同意しながら作っていけばいい。親が考えたところで、所詮、老いていく自分たちと、今までの苦い経験知から発想する生活がおもしろいものになるなんて思えない。もっと言えば、親の安心、安全、気休めにどうしてもなってしまう。それよりも、親からすれば「ちょっとそれは…」と思うことがわくわくおこなわれる方が、たけしの人生は豊かになるだろう。私はそれを、少し遠くから時々眺めるぐらいがいい。》
やまゆり園事件、どうして支援の現場で障がいのある人たちと人として出会えなかったのか、をずっと考えていました。でも本の帯にあった
《「支援」という言葉が窮屈に思えてくる。》
の言葉に出会って、「支援」という言葉の幅の狭さを思いました。障がいのある人たちの自由奔放さを「支援」という言葉は追い切れないのではないか。だから人としても出会えない。あんなにステキな人たちを前に、すごくもったいないことです。
何かやってあげるとか、やってやる、のではなく、レッツみたいに、彼らと一緒に楽しいことをやる。そうやって一日を一緒に過ごす。その気になればすぐにでもできることです。そうすれば彼らのこと、きっと見直します。人として出会えます。なんて楽しい、ステキな人たちなんだ、って。そうやって、ともに生きる社会ができあがっていく。
事件の犯人が、そんな風に目の前の重度障がいの人たちと人として出会っていれば事件は起こりませんでした。「支援」が、その出会いを阻んでいました。だとすると、「支援」という窮屈な関係性の果てに、事件は起こったのではないかと思ったりするのです。
3月6日(土)の福祉関係者を相手の「福祉フォーラム」でも、そんな話をしてこようかなと思っています。