やまゆり園事件について考える講演会&シンポジウムの講師をされた方が、
「やまゆり園事件を受けて支援の現場が問われていることについて、支援職の当事者意識がやはり低い気がした」
とFacebookに書いていて、ちょっとがっかりしました。
「どうしてなんでしょう」という私の問いに
「「支援する、される」という一方的な関係が固定化することの危うさについて、あまり考えていないのかもしれません。「自分たちは、良いことをやっている」。自らを疑う機会が少ないのかもしれません。」
と書いていました。ま、それもあるかも知れませんが、そういう理屈っぽい話の前に、もっと単純に、事件に対して本気で怒ってないんじゃないか、と私は思います。
事件に対して本気で怒っていない。
それがあるから自分にとってあの事件はなんだったのかを本気で考えられないのではないか。どうして本気で怒らないのか。
私自身は
「障害者はいない方がいい」
と自分勝手なこといって19名もの人を殺してしまった事件は、もう信じがたいというか、黙ってられない気がしました。
それは私自身が日々障がいのある人たちに関わり、彼らといっしょにこの時代を、この社会を生きているからです。日々、一緒に笑い、いっしょにいい一日を作る仲間です。彼らは社会を耕し、社会を豊かにする人たちです。それは彼らとのフラットなおつきあいの中で見えてきたことです。
だから「障害者はいない方がいい」という言葉に猛烈に腹が立ったし、それを理由に障がいのある人たちを殺してしまうなんて本当に許せないと思いました。
悲しくて、悔しくて、腹が立って、事件について、もう書いて書いて書きまくりました。書いても書いても怒りが収まらない感じでした。怒りはエネルギーを生みます。そのエネルギーが事件に関して156本ものブログを書かせたと思っています。156本も書くなんて、やっぱり怒りが半端じゃなかったと思います。
支援の現場の人間が、自分にストレートにつながる事件だったにもかかわらず、どうして本気で怒らないのか。
多分、日々関わっている障がいのある人たちとの関係が薄いのではないか思います。支援する、という関係はあっても、相手と人として出会い、人としておつきあいする、という関係がないのではないか。だから怒りも湧いてこないし、事件を自分事としても考えられない。
障がいのある人と人としてつきあっていたら、事件は辛くて辛くて、他人事にはなりません。相手と人として出会う、というのはそういうことです。彼らと出会うと事件が辛くなるのです。
2016年10月の秋のマルシェで事件のことにふれながら辛くて辛くて私はみんなの前で泣いてしまいました。
障がいのある人たちと人として出会うことで、私たちもまた人になれます。だから事件が辛くなるのです。
息苦しい現代社会の中で失っていた人を取り戻すのです。ぷかぷかに来るとほっとする、という人が多いのは、そのせいです。
事件は、やまゆり園の現場の、障がいのある人たちとの関係の薄さの中で起こったのではないかと私は思っています。相手ときちんと人間的な関係が結ばれていれば、人として出会っていれば、相手を殺す、などといったことはあり得ないからです。
植松は、あの時、自分の中に人を見失っていた。人を見失うような環境だった。だから相手を殺すところまでいってしまった。いろんな思いがあっても、人である感覚は、一線を越えさせません。
支援の現場で必要なのは、この人としての感覚を取り戻すことだと思います。そのためには相手と人として出会うこと。そこからもういっぺん事件を見直してみる。あの事件は私たちにとってなんだったのか。
「障害者は不幸しか生まない」という言葉は、やまゆり園での障がいのある人たちとの関係の貧しさを語っています。不幸しか生まないのは、障がいのある人自身の問題ではなく、そこでの関係性の問題であることにどこまで私たちが気づいているのか、ということ。そこが今問われていると思います。
こんな舞台を見て、「障害者は不幸しか生まない」とは誰も思いません。彼らとどういう関係を築くのか、そこで何を作り出すのか、ということこそ大事な気がします。