ひどい事件がまた起こりました。
相手を思いやる心が全くないのですね。やまゆり園事件も同じです。相手を思いやる心があれば、起きるはずのない事件です。
福祉の現場でどうしてこんなことが起こるのか、ということをきちんと検証していかないと、多分同じような事件は起きます。
何度も書いているように、相手と人としてつきあっていない、ということではないかと思います。支援の対象としか見ない関係の中には、この「人としてつきあう」という一番大事なことが抜け落ちているのではないかと思います。そこがあればやまゆり園事件も、今回の事件もなかったはずです。
以前福祉関係者の集まりで映画の上映と話をする機会があったのですが、質疑応答の中で、相手との関係を語るときに、何かにつけ「支援」「支援」という言葉が出てきました。「支援する関係」以外のことが考えられない感じでした。そこから自由になれない、というか。
どうして自由になれないんだろうと思います。
「なにかやってあげる」のではなく、一緒に何かやれば、思いもよらないすばらしいものがいっぱい出てきます。そういうものとの出会いは、相手との新たな出会いです。素直に、この人すごいもの持ってるなぁ、と気づきます。
でも、自分が何かやってあげなきゃ、相手は何もできない、と思い込んでいる関係からは、多分自分が考えている以上のものは出てきません。相手と新たに出会う、といったことはありません。
せっかく誰かといっしょにいるのに、もったいない話だと思います。
誰かといっしょにいる、というのは、いっしょにいることで、何か新しいものが生まれるからです。一人では生まれないものが、その人といることで生まれるからです。
誰かといっしょにいて、何か心安らぐものがあるとか、なんかすっごく楽しいとか、思ってもみないものができちゃうとか。
結局、事件の起こった現場というのは、そういったものが感じられないような関係だったのだと思います。言い換えれば、相手と人としてつきあっていない。そこをどうやったら改善できるのか。
「支援」という関係をいったんおいて、一緒に何かをやる、フラットな関係で何かをやる、そのことにつきると思います。そうして何よりも、相手とのおつきあいを日々楽しめるかどうか、ということ。
一緒に耕していこう!