重度障害障害者に税金を使うのはもったいない、とやまゆり園事件の植松死刑囚はいい、それに同感する社会があります。
重度障害者にお金を使うのはほんとうにもったいないことなのか。そこを考えていくことは、これからの社会のありようを考えることです。
もったいないかどうかを生産性という視点だけで考えると辛くなります。でも、生産性を離れ、違う視点でこの問題を見直していくと、新しい別の価値が見えてきます。
2月のクローズアップ現代で重度障害の子どもと一緒にやまゆり園裁判を傍聴した土屋さんが紹介されていましたが、その番組の短縮版にちょっと感動的な場面がありました。
重度障害のそうま君の誕生日。バースディケーキを前に「そうま、自分でふーしてみて ふー」とお父さんが言います。そうま君は自発呼吸は今後も無理だと医者からいわれています。でも、そうま君はお父さんの声を聞いて舌をそっと突き出し、ふーしようとします。兄弟たちの笑い声が重なって感動的な場面でした。
そうま君がいることで生まれた素敵なひとときです。それを幼い兄弟たちも含めて家族みんなで楽しんでいます。子どもたちの笑い声がすごくいいです。
そうま君がいることで生まれるこういう時間こそ大事にしたいと思うのです。こういう時間は家族を、そして社会を豊かにします。生産性では計れない価値です。
それがそうま君がいることの価値です。そうま君が何かを生み出すかどうかではなく、そうま君がいること、そのこと自体に価値がある、ということです。こういう価値を社会のなかでもっともっと共有できれば、重度障害の人に限らず、すべての人にとって生きることが楽になります。
重度障害の人たちにお金を使う、というのは、そうすることで生まれる豊かな時間を大事にするためです。生産性では計れない価値を大事にするためです。その価値は私たち自身の生きることを楽にし、社会を豊かにします。
生産性では計れない人間の価値を最初に教えてくれたのは、養護学校で出会った重度障害の子どもたちでした。あれができないこれができない子どもたちが、何かができるとかできないとかの価値観では計れない人間の価値を身をもって教えてくれたのです。そんな価値を知ったことが、今のぷかぷか設立につながっています。そしてぷかぷかが今、社会のなかで果たしている役割を考えると、彼らが教えてくれた価値の素晴らしさをあらためて思うのです。
下に添付したのは、重度障害のそうま君と一緒に裁判を傍聴した土屋さんを通して、事件の意味を探った素晴らしい記事です。
話を大きく広げることなく、そうま君とお父さんの関係を通して事件を見ていくところがいいなと思いました。事件がとても身近な問題として見えてきます。
何よりもお父さんが裁判の傍聴を通して気持ちが楽になった、というところがいいですね。
記事の最後に土屋さんの言葉がありました。「この子と一緒にいれば迷わないのかなって」。そういう思いに至ったところが裁判を傍聴していちばんの収穫だったように思いました。
「植松被告と日本社会と向き合いたいと思っていたんだけど、結果的にはずっと自分と向き合っていた裁判でした。人の役に立つとか、人に迷惑をかけないとか、社会に求められるような生き方に窮屈さと息苦しさを感じてきたんだけど、荘真は本当にあるがままに生きているので何だか子どもに頼っちゃって少し情けないけど、この子と一緒にいれば迷わないのかなって」