ぷかぷか日記

人としての情

 在宅の重度障害者が窮地に、という記事を読んでも、外出を手伝いに行くわけにもいかず、コロナというのはなんともやっかいです。

mainichi.jp

記事の最後にこんな言葉がありました。

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「植松聖死刑囚は、重度障害の人は生きる価値がないと否定しているでしょう。その中で、親がこんなに大変だ、大変だというと、『ほらやっぱり』と思うような人がいるかもしれない」と洋子さん。

 続けて「でもね、こんなに大変でも私たちが頑張っているのは、この子の命が何より大切だからなんです。信太郎の大切な命をなんとしても守りたいから、頑張れる。だから大変なのは事実ですけど、生きる価値がないなんて、そんなことは絶対にないということを言いたい。それだけは、伝えたいんです」。冷たい言葉があふれるコロナの時代に、この言葉を書き留めておきたい。

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 記者の思いが溢れた言葉でした。

 あらためて植松死刑囚はやまゆり園で重度障害の人たちとどういうつきあいをしていたのかと思いました。普通は毎日つきあっていれば、相手がどんなに重度障害を持っていようと人としての情が湧くものです。相手が笑えば、こちらもうれしくなったり、悲しい顔をしていれば、どうしたんだろうって心配になったりするものです。

 それを

 「生きる価値がない」

などと思ったのですから、やまゆり園の現場では「人としての情」を持っていなかったのだと思います。「人としての情」を持てないような雰囲気の現場だったのだと思います。

 先日、神奈川新聞に「津久井やまゆり園」の支援実態を検証する第三者委員会の報告が載っていました。

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利用者の見守りが困難なことを理由に身体拘束をしていた事例もあった。身体拘束が漫然と行われていたと考えられるとし、「正当な理由なく身体拘束することは身体的虐待に該当し、重大な人権侵害であることを肝に銘じることが重要」と指摘した。

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 重大な人権侵害である、と指摘されながら、かながわ共同会は

「必ずしもすべてが事実ではない。」

等と反論したようですが、事件との関連で行われたことの自覚が全くないですね。すべてが事実ではない、などといってる場合か、と思いました。事件を起こした現場の責任者としての自覚が全くないですね。

 結局は法人のそういう体質のなかで事件は起こったのだとあらためて思います。

 等と書いても、法人には届かないし、法人には自浄作用が全くないので、結局事件の温床は残されたままになるのだと思います。

 

神奈川新聞の記事

https://www.kanaloco.jp/article/entry-357593.html

 

 

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