こんな投書がありました。
数日前、やまゆり園事件の裁判の記事では被告の証言としてやまゆり園での対応が載っていました。
「口調が命令的。人に接するときの口調じゃなかった。」
「人として扱っていないと思った」
「食事は流動食で、職員は流し込むというような状況。人の食事というよりは流し込むだけの作業に見えた」
相手をしている障がいのある人たちを「見下している」のは、どこの福祉事業所でも同じなんだと思いました。どうしてこういうことになるのか。
二つに共通しているのは「支援」という上から目線の関係です。相手がいろいろできないからやってあげる、という一方的な関係。
上から目線の関係は、時には相手から何かを学ぶ、という謙虚さがなく、お互い学び合う、といった双方向の関係にはなりません。いつも一方的。私=「できる人」「やってあげる人」、相手(障がいのある人)=「できない人」「やってもらう人」という関係が固定されています。
「できない人」といわれている人たちも、よぉくつきあってみると、できることがいっぱいあります。私たちにできないことが、ものすごくできたり、といったこともあります。そういうことを見つけ、お互い成長していくのが、双方向の関係です。
障がいのある人たちは、確かに、できないことが多いです。でも、一方で、私たち以上にできることも多いのです。だから一緒に生きていると楽しいし、そこから新しいものが次々に生まれるのです。
要は、そういうものを相手の中に見つける目を持っているかどうかです。
自分たちの方ができる、という思い込みは、謙虚に相手を見る目を奪います。できないことばかりが目に入って、こいつらどうしようもない、と更に見下していきます。
風通しの悪い、閉鎖空間で相手を見下すことが日常になると、相手を人として見ることができなくなります。
「殴っていい」
「人に接するときの口調じゃなかった。」
「人として扱っていないと思った」
「人の食事というよりは流し込むだけの作業に見えた」
というのは、まさに相手を人として見ることができなくなっているからだと思います。現場がどんどん荒廃していきます。投書に出てきた福祉事業所も、やまゆり園も、そういった現場なんだと思います。
どうすればいいのか。
それは一方的にやってあげるのでなく、「相手からも学ぶ」といった双方向の関係を取り戻すことです。謙虚な気持ちで相手を見るのです。そうすれば、障がいのある人たちは、私たちにはない、いいものをいっぱい持っていることがわかります。そんな彼らとおつきあいすると、私たち自身が豊かになります。一緒に生きていったほうがトク!と思えるようになります。
まさに、障がいのある人たちと一緒に生きていくのです。お互いが学び、豊かになっていく双方向の関係が生まれます。そうすれば、福祉事業所は全く違うものになります。社会を豊かにする価値あるものを創り出すことができます。
それがやまゆり園事件を超えることだと思います。
9月5日(土)にこの問題を考える集まりをやります。