養護学校の教員をやっていた頃書いた『街角のパフォーマンス』をオンデマンドで100部限定で印刷しました。1988年に発行したものですが、中身は全く古くありません。というか、障がいのある子どもたちとこんなにおもしろい場をいろいろつくってきたことは、時代のはるか先を行っていたような気がします。いや、今の時代だって、こんな場はつくり切れていない気がします。
副題の《「障害」のある子たちからのやさしい反撃》は、彼らといっしょに作り出した柔らかなやさしい文化による、彼らを排除する文化への反撃、といった意味です。当時、私が彼らといっしょに作り出しているのは新しい「文化」だ、と主張していたのですが、振り向く人はゼロでした。何を寝ぼけたこといってんだ、という雰囲気。演劇ワークショップが読売福祉文化賞を受賞したのは、それから30年もたってからです。時代は何を見ていたのか、と思います。
ですから、今読んでも、新しいものがたくさん見つかります。ぜひ読んでみて下さい。
どんな内容なのか。目次を見ただけでわくわくします。
よく晴れた日曜日の昼下がり、街角の小さな駐車場に「カントト、チントト、カンカン、ジャーン」と鍋のふたやら空き缶やらのにぎやかな音が響き渡ると、プラスチックの野菜ケースを積み上げた舞台で人形劇が始まります。
「やあやあ、おまえはだれだ」
「おれか、おれはバナナから生まれたバナナ太郎だ。さあ、かかってこい」
と台所のスポンジでつくった小さな人形が右に左に舞台を動き回ります。街角にとつぜん出現した、なんとも楽しい雰囲気に、通りがかりの人たちも「お、なんだなんだ」と、つい足を止め、見入っていきます。
養護学校の子どもたち、生徒たちが地域に出て行く手がかりをつかもうと、月一回、街角の小さな駐車場で開かれている「あおぞら市」に手打ちうどんのお店を出していました。たまには何かおもしろいことやろうよ、って「うどんや」の終わったあと、そこにあつまった近所の子どもたち、大人たち、養護学校の生徒たち、子どもたちで即興の人形劇をやったことがありました。
地域の子どもたちと大人たち、養護学校の生徒たち、子どもたちで、街角の駐車場で即興の人形劇をやるなんて、今、この時代でもなかなかないと思います。即興で芝居をつくってしまうようなことができたのは、いっしょに演劇ワークショップをやり始めて2年目くらいで、みんな芝居つくりにかなり慣れていたからです。
即興で芝居をつくってしまうこともすごいのですが、その前にこういうことができてしまう関係があったことがすごい重要です。今のぷかぷかでも、地域の子どもたち、あるいは大人たちと、ここまでの関係はつくり切れていません。それを30年以上も前にやっていたのです。「ともに生きる社会」だの「共生社会」だのの言葉すらなかった頃の話です。
どうしてこんなことができたのか、ぜひ『街角のパフォーマンス』読んでみて下さい。抽象的な話ではなく、具体的な手がかりがいっぱい見つかるはずです。
学校の中ではプレイルームを占拠し、役者もお客さんもクッタクタになるほどの熱気あふれる場「芝居小屋」をつくったりしていました。役者だけでなく、お客さんも一緒になって芝居をつくり、一緒になって楽しめるような場をつくりたいと、「海賊ジェイク」という芝居をまさに「芝居小屋」という雰囲気の中で、役者もお客さんも汗だくになってつくりました。
ビューン ビューン
ザザザザ ザッブーン
ピカピカッ ドッカーン
風をやる人、波をやる人、雷をやる人、全部やる人、なんだかわからないけど
めちゃくちゃにコーフンしてる人、「芝居小屋」はもう熱気むんむんの大嵐。
こういうことは事前に説明できません。その場で即興で進行していきます。説明するとつまらなくなります。何が始まるんだろう、どうなっちゃうんだろう、というわくわく感が、なくなってしまいます。予定通り進める、という予定調和は、場と向き合う、という緊張感をそいでしまいます。
《 当時はほんとに必死だった。お客さんはもちろん、いっしょにやる教員も「ほんまこいつ何やるんだろう」って感じだったから、もうとにかくここで勝負するしかないと思ったね。たった一人であの場と向き合ったときの緊張感は、今思い出してもたまらない感じ 》
いろんなことができるようになったのは、このときの経験が大きかったと思います。表現することの自由をこのとき手にしたように思います。その後転勤した養護学校では全校生を相手に体育館でこの「芝居小屋」をやりました。
今の学校に、これだけ熱気、エネルギーの渦巻く場があるでしょうか?管理ばかりやたらうるさくなって、みんなが生き生きする場がほとんどありません。これは管理する側の問題だけでなく、管理を超えるくらいのすばらしいものを作り出そう、という熱い思いのない教員の側の問題が多いと思います。
それを取り戻すにはどうしたらいいのか。この本には多分ヒントがいっぱいあります。
ベテランの教師と組んで「ちびくろサンボ」の芝居をやったことがあります。その教師が芝居の終わったあとの感想に「自分のために何かするなんて、はじめて」と書いていて、その言葉が妙に気になって、後日二人で話をしました。その時の記録が第3章(3)の二人でトーク「子どもと出会い、自分と出会う」です。ベテランですから、いつも子どものために授業をやってきました。レールを敷き、その上を授業案通りに走らせるような授業。そんなガチガチだった教師が、私と組んで「ちびくろサンボ」の芝居をやる中で、はじめて子どもと出会い、自分に出会います。そして「自分のために何かするなんて、はじめて」と感想に書きます。私も含め、自由になるってどういうことかについて深く語り合った貴重な記録です。ぜひ読んでみて下さい。
養護学校でステキな子どもたちに出会い、こんな子どもたちを学校に閉じ込めておくのはもったいない、と街へ連れ出しました。
原っぱで野球をやっていた子どもたちの中へ、重度障害の子どもが知らない間に入っていて、子どもたちはその子のためにルールを変えたりして楽しく遊んでいました。大人がお膳立てしたりする必要は全くありませんでした。
6年生のみーちゃんはこんなふうに書いていました。
《 私たちが野球をしていると、気がついたときにいたというか、あとから考えても、いつきたのかわかんないけど、けんいち君がはいっていて、バットを持ってかまえているので、おにいさんのあきら君にゆっくりかるい球をなげてもらい、いっしょに野球をやることにしたんです。
けんいち君は、最初のうちは球がくると、じーっと球を見ていて打たなかったんです。球の行く方をじっと見ていて、後ろをふりかえって、キャッチャーが球をとってからバットを振るのです。 》
いっしょに遊んだ1年生のくんくんはけんいち君にお手紙を書きました。
障がいのある子を一人で電車に乗せないでください、という新聞投書がありました。
この投書をテーマにした集まりを地域の中でやりました。養護学校へ子どもをやっているお母さんたち、地域のいろんな人たちが集まりました。その中でこんなすてきな意見が出ました。
《今は人とつきあうおもしろさが実感としてなくなってきたんじゃないのかな。僕はお母さんたちの話を聞くのははじめてで、すごくいいなぁって思って、心が耕されているみたいです。そういうおもしろさみたいなのをうまい手段で伝え、みんなと結びつきができるようになれば、100年後には、もうちょっといい世界ができるんじゃないかな》
30年前はみんなそんな風に世界は少しずつよくなるものと考えていました。そんな思いでたくさんの方が投書を巡っていろんな意見を出してくれました。みんな、世界を少しでもよくしたい、と思ってのことです。こんなふうにすれば世界は少しずつよくなると思っていたからです。
でも、30年後、相模原障害者殺傷事件が起き、「障害者はいない方がいい」という犯人の言葉に賛同する人たちまで現れています。社会の分断は30年前よりも更に進んでいます。
結局、この30年、私たちは何をやっていたのか、ということです。
そんな中で、私たちはどう生きていくのかが問われていると思います。
『街角のパフォーマンス』ぷかぷかで販売しています。info@pukapuka.or.jp 魚住までお問い合わせ下さい。電話は045−923−0282 アート屋わんど