京都アニメーションの放火事件の実名報道を巡って、いろいろ議論が起こっているようです。
実名報道されたその日のテレビで、たまたま犠牲になった石田敦志さんのお父さんがたくさんのマイクの前で自分の思いを語っていました。たくさんの言葉の中で、ひとこと、心の中までまっすぐにとんできた言葉がありました。
「石田敦志がいたことを忘れないでほしい」
もう、すがりつくような思いでお父さんは言ったのだと思います。「石井敦志」、その名前は、石井敦志さんの人生そのもの。だから忘れないでほしい。
「石井敦志」という名前をなぞりながら、「彼がここでアニメをつくりながら一生懸命生きていたことを思い出してほしい」、そうお父さんはいいたかったのだと思います。
名前は、その人を忘れないための、唯一残された手がかりです。
名前がなければ、その人がいなかった、その人の人生がなかった、と同じになります。
津久井やまゆり園の追悼の集まりには、名前のない柱が並んでいたと、参加した方が書き込んでいました。
名前のない柱では、誰が亡くなったのか、誰がどういう人生を送っていたのか、思い出す手がかりが全くありません。
みんな一生懸命自分の人生を生きていたはずなのに、それを思い出す手がかりがないのです。言い方を変えれば、一生懸命生きていたみんなの人生がなかったことにされているのです。
亡くなられた人たちの思いはわかりません。でも、自分がもし亡くなられた人たちの立場であればどう思うのだろう、という想像はできます。一生懸命生きた自分の人生がなかったことにされるなんて、耐えられない気がします。
「名前のない柱」は、津久井やまゆり園が、強いては社会そのものが、重度障害の人たちの人生にどう向き合っているのかを象徴しているように思います。
「これはおかしいじゃないか」「亡くなった彼らに対して、あまりにも失礼じゃないか」
って、どうして誰も言わないのでしょう。
事件を考える集まりで、やまゆり園の家族会の会長は、名前が知られると、たとえば親類が飲食店をやっている場合は売り上げが落ちます、だから名前は公表できない、などといっていましたが、彼らの人生よりも、飲食店の売り上げの方が大事なのでしょうか。
親なら誰しも、石田敦志さんのお父さんのように、自分の子どもがここで生きていたこと、ここでこんな人生を送っていたことを忘れないでほしい、と思うのではないでしょうか。
名前のない柱を見ながら、ひょっとしたら、とても寂しい思いをした親御さんもいたんじゃないか、と石井さんのお父さんの言葉を聞きながら思いました。