「共同通信が全国の障害者を対象にアンケートを実施したところ、「大会が障害の理解につながる」との回答が62%に上った。選手の活躍や大会の盛り上がりによって障害への関心が高まり、差別や偏見が解消されるとの期待が大きい。」
と神奈川新聞にありましたが、なんか違うんじゃないかと思いました。
すごくわかりやすい例があったので紹介します。
大和市で「車いすバスケット体験講座」というのがあったそうです。
「車いすバスケットボールの体験や選手の体験談を通じて、社会福祉への理解を深めるとともに関心を高めてもらおうと、毎年市内の公立小学校・中学校で実施しています。」と体験講座のサイトにあります。
大和市福祉推進委員会の委員である校長は「子どもたちの目がキラキラしているので意味がある」とコメントしたそうですが、
「娘が在学中も通学する学校でも実施されました。目の前にいる車いすの子どもには目を向けず、です。娘の車いすを押してくれる級友は増えたりすることはありませんでした。」とお父さんの平岡さんは書いています。
つまり、車いすバスケットを、目をキラキラさせながら体験しても、その体験が、車いすの当事者と関係を作ることにつながっていないのです。たくさんの人がパラリンピックのテレビを目をキラキラさせながら見ても、多分車いすを押す人が増えたりはしません。当事者との関係を作るということにならないのであれば、「差別と偏見」の解消にはなりません。
車いすバスケットは、体験すると、それ自体がおもしろいのだと思います。だから目をキラキラさせた。ただそれだけのことです。それを「社会福祉への理解を深める」ことと安易に結びつけたりするから、話が薄っぺらになるのだと思います。
「娘の車いすを押してくれる級友は増えたりすることはありませんでした。」の言葉は、この手のイベントの本質を鋭く指摘していると思います。イベントの企画者、担当者は、どうしてこういう結果になるのか、謙虚に考えるべきだと思います。
この手のイベントと、当事者と関係を持つことがなぜ結びつかないのか、結びつけるにはどういう仕掛けが必要なのかを、当事者、あるいは関係者の側からの提案も必要なのだと思います。批判するだけでなく、新しい仕掛けの提案こそ必要な気がします。
そもそも「理解する」ことと、「差別や偏見が解消される」こととは、あまり結びついていない気がします。
ぷかぷかにはたくさんのファンがいます。ファンの人たちにはこの「差別も偏見」もありません。ファンの人たちはぷかぷかさんのことを理解して「差別や偏見」をなくしたわけではありません。ぷかぷかのお店に来たり、ぷかぷかのFacebookや、ホームページを見て「ぷかぷかさんが好き!」とファンになっただけです。
お店にもFacebookにもホームページにも、理解を求めるような言葉は一つもありません。あるのは「障がいのある人たちとはおつきあいした方がいいよ」「その方がトク!」という言葉と、なんとなく「そうだよね」って納得してしまうような「雰囲気」「空気感」です。
区役所でぷかぷかのパンやお弁当の販売をするとき、こんな行列ができます。パンがおいしいことはもちろんあるのですが、スタッフだけで販売に行ったのでは、こんな行列はできません。やはりぷかぷかさんたちが販売しているから、こんなにお客さんが集まるのです。
ここには「差別も偏見」もありません。あるのは「おいしいパンがほしい」「ぷかぷかさんに会いたい」の二つです。
行列ができるような仕掛けをしたわけではありません。ぷかぷかさんたちにお店を任せていたら自然にこうなっただけです。ぷかぷかさんたちが区役所を耕した結果なのです。(詳しくは『ぷかぷかな物語』(現代書館)に書いていますので、ぜひ読んでみてください。)
ぷかぷかさん自身が、彼らの魅力で「差別、偏見」をなくしているのです。それが上の写真です。
これは何を物語っているのか、ということです。写真が問いかけているもの、それは社会が持っている「福祉」というものへの根源的な問いではないかと思います。「福祉」は「障害者を理解する」ことでよくなるのか、という問いです。