障がいのある人たちとおつきあいし、その人たちと出会う、という経験がなければ、障がいのある子どもを持つことは、ただただ大変なことにしか見えません。
だから
「事件があったことは悲しいけど、でもよかったんじゃない?」(NHK「19のいのち」のサイトにある、事件で犠牲になった方のお母さんが寄せた手記)
などと、ついいってしまったのだと思います。障がいのある人たちとおつきあいのない多くの人は同じようなことを思ったのではないかと思います。
そういういい方はおかしい、というより、そんな風に思ってしまうのは、人生のとても大事なものを見落としていて、もったいないなぁと思います。ソンしてる、というか…
養護学校の教員になる前は、障がいのある人たちと全くおつきあいしたことがなかったので、多分同じように「でも、よかったんじゃない」って思ったと思います。
でも初めて担任した子どもたちが、みんな手のかかる重度障害のある子どもたちで、毎日が本当に大変だったのですが、それでもいっしょに何かを作りながら、いっしょに笑ったり、完成したときは「やったね!」って手を合わせたり、一緒に水遊びをして大はしゃぎをしたり、そんな楽しい日々を過ごしているうちに、彼らのそばにいるとただそれだけで、妙にほっこりあたたかな気持ちになり、月並みですが、「人間ていいなぁ」って、彼らの横顔見ながらしみじみ思うようになりました。
毎日毎日想定外のいろんなことやってくれて、すべてが初体験の私にとっては、本当に嵐のような日々だったのですが、仕事の合間にふっと感じる安らぎのようなものは、それまで生きてきた人生にはないものでした。
何かができるできない、といった目で見たら、彼らは何もできない子どもたちでした。でも、人が生きていく上で何が大事か、ということを彼らは身をもって教えてくれたように思うのです。
どんなに手のかかる子どもでも、その子がそこにいること、そのことに価値がある、ということを、彼らはてんやわんやの毎日の中で教えてくれたのです。教え方はちょっと乱暴でしたが、それ故に体にしみました。
「どんなに手のかかる子どもでも、その子がそこにいること、そのことに価値がある」なんて、大学の哲学の講義に出てきそうですが、講義で聞くような話はすぐに忘れてしまいます。
体にしみこんだものは、自分の生き方になります。「19のいのち」のサイトに投稿されたお母さんの手記を読んだとき、お母さんの悲しみが突き刺さるようにわかりました。子どもがいること、そのことにかけがえにない価値があったのですから。
お母さんの悲しみを自分の悲しみとして悲しむことができる、というのは、自分の人生の幅が広がったということであり、豊かになった、ということだと思います。
「でも、よかったんじゃない」って思うより、私はいっしょに悲しむ方を選びます。悲しめる方が、人生トクしてると思うからです。
「そうだ!」って、この人もご飯食べながらいってますよ、きっと。