やまゆり園事件を考える集まりに行ってきました。
映画は前半、植松容疑者の言葉をひたすら追いかけていて、ちょっとしんどい感じがしましたが、最後のエピソードには救われました。
車いすの女の子がお姉さんの結婚式に出るのを楽しみにしていました。ところが、まわりの目を気にして母親が出ないでくれ、と要請します。あの家族には障害者がいるので、ひょっとしたらお姉さんにも障害者が生まれるのではないか、と思う人がいるかも知れない、と。女の子はがっかりして泣き出します。
担任がいっしょにお姉さんの浴衣を縫おう、と提案。女の子は不自由な手で一生懸命お姉さんのために浴衣を縫います。完成した浴衣をお姉さんに送ると、お姉さんから結婚式の招待状が来ます。結婚式に出た車いすの女の子は、まわりのお客さんから冷たい目で見られます。でも、お色直しの時、お姉さんは妹の縫った浴衣を着て登場。
「妹は手が不自由ですが、その不自由な手で一生懸命この浴衣を載ってくれました」
と紹介。会場はあたたかい拍手で包まれます。
とてもいいエピソードで、私は涙が流れました。
「障害者はいない方がいい」という植松容疑者の言葉とそれに共感する社会に向けての映画を製作した方の精一杯のメッセージだったと思いました。「障害者はいた方がいい。彼らはこんなふうにみんながあたたかい気持ちになれる時間を作ってくれるのだから」と。
ところが、終わったあとのトークセッション。
あの場面は、できることはいいことだ、みたいなメッセージで優生思想そのものじゃないか、どういうつもりであのシーンを入れたんですか?といった意見が出ました。そうだそうだ、と何人かが言ってました。
みんながあたたかな気持ちになるメッセージにそんな感想がぶつけられ、なんだかがっかりでした。そこまで言うか、とちょっと悲しい気持ちになりました。
障がいのある子どもがすごくがんばって、結果的に結婚式場での障害者に対する冷たい目線をひっくり返し、みんなをあたたかい気持ちにした、というすごくいい話です。できることはいいことだ、みたいなメッセージではなかったと思います。
優生思想の批判は大事です。でもいつもそういう目で物事を見てしまうと、ちょっとしたことまでそれはおかしい、となって、大事なことまでも見えなくなってしまいます。
世界はもっとおおらかな気持ちで見たいものです。