やまなみ工房の映画「地蔵とリビドー」について書かれたすばらしい論評を見つけました。映画を語りながらも、「特別」でない人へも思いを向ける姿勢がすばらしい。
《人の数だけ、暮らし、そして人生があります。現実には、全ての障害者がアート作品を生み出せるわけではありません。そうした人々に、どんなまなざしを向けられるのか。このことをこそ、映画から問われている気がします。》
私たちは、すばらしいアートを生み出す人たちに、ついつい心を奪われてしまいます。でも、そういうものを生み出さない人たちもたくさんいます。その人たちにどんなまなざしを向けられるのか、ということ。
何も生み出さなくてもいい。その人がいること、その人がその人らしくそこで生きていること、そのことを素直に喜べる人間になりたいと思うのです。そのためには、どこかでその人に出会う。あーだこーだの理屈でなく、とにかく出会う。それがいちばん。
何度も紹介している、昔担任していたシノちゃんは、暴力ばかり振るって、何も生み出さない人でした。殴られ、蹴られで、ぼこぼこの毎日でした。それでも私はシノちゃんが好きでした。時折遠くを見つめ、ふっと笑うシノちゃんの横顔を見ると、もう心がキュンとなって、ぼこぼこにされた毎日もすべて許してしまいました。
出会うことは、許すことかも知れません。だから、その人がそこにいること、その人がその人らしくそこで生きていること、そのことを素直に喜べる瞬間なのかもしれません。