ご存じの通り、ぷかぷかには
「ぷかぷかさんが好き!」
というたくさんのファンがいます。「ぷかぷかさんが好き!」ということは「障がいのある人が好き!」ということです。
「障がいのある人は、なんとなくいや」「怖い」「近寄りたくない」という人が圧倒的に多い社会にあって、これは全く正反対の評価です。
「ぷかぷかさんが好き!」という評価は、ぷかぷかさんを社会にうまく合わせているから出てきたわけではありません。社会に合わせることをやめたことで、「ぷかぷかさんが好き!」という評価が出てきました。
社会に合わせないことで、社会が受け入れた、という、なんだかややこしい話です。
ここがでも、おもしろいですね。普通は、社会に合わせるから、社会は受け入れてくれます。でも、ぷかぷかの場合は、合わせないことで、ファンができた、つまり、熱烈に受け入れてくれました。
もし、ぷかぷかが、今のような方針ではなく、ぷかぷかさんを社会に合わせようと一生懸命になっていたら、たぶん「ぷかぷかさんが好き!」というファンはできなかったと思います。このことは何を意味するでしょうか?
社会に合わせないことで、ぷかぷかさんたちは、この息苦しい社会の中で、何が大事なのかを、静かに教えてくれています。彼らが自由に振る舞うことで、ホッと一息つける場所を作ってくれているのです。
彼らを社会に合わせようと一生懸命になっていたら、彼らは自由に振る舞えなくなって、この大事なことを教えてくれなくなります。ぷかぷかが、ホッと一息つける場所にならないのです。これではファンなんかできっこありません。
相模原障害者殺傷事件以降、「ともに生きる社会」を作ろうとか、「共生社会」を作ろう、という言葉がやたら飛び交っています。でも、一向にその社会が見えてきません。どこまでも「理想とする社会」「遠い未来に実現する社会」の位置にとどまっています。
どうして「ぷかぷか」のように、自分のまわりに小さな「ともに生きる社会」が実現できないのでしょう。
それは、ひょっとしたら、「ともに生きる社会」あるいは「共生社会」を作ろうという人たちが、障がいのある人たちを社会に合わせる、という気持ちを捨てきれないのではないか、と思います。言い換えれば「支援」という関係性から自由になれない。
「支援」という関係と「ともに生きる関係」は違います。「支援」という上から目線のまま、彼らと「ともに生きる関係」なんてあり得ないのです。
自分自身の彼らとの関係性を問い直さない限り、「ともに生きる社会」も「共生社会」もあり得ないのだと思います。
「ともに生きる社会」を阻んでいるのは、「支援」という関係性を抜け出せないところにあるような気がします。
まずは彼らと「ともに生きる関係」になる。そこから「ともに生きる社会」が始まります。
こんな人とは「支援」ではなく、いっしょに生きていった方が絶対トク!だと思います。