『道草』という映画の解説がすばらしいです。
はみ出していく
よし、はみ出していこう
暮らしの場所を限られた人たちがいる。
自閉症と重度の知的障害があり、自傷・他害といった行動障害がある人。
世間との間に線を引かれ、囲いの内へと隔てられた、そんな世界の
閉塞を、軽やかなステップが突き破る。
東京の街角で、介護者付きの一人暮らしを送る人たち。
タンポポの綿毛を飛ばし、ブランコに揺られ、季節を闊歩する。
介護者とのせめぎ合いはユーモラスで、時にシリアスだ。
叫び、振り下ろされる拳に伝え難い思いがにじむ。
関わることはしんどい。けど、関わらなくなることで、私たちは縮む。
だから人はまた、人に近づいていく。
障害が重い人が相手の場合は、そのおつきあいはいろいろ大変です。しんどいです。でもそのしんどさこそが、人間を磨き、人として、そこに立たせるのだと思います。
障害に関する知識は、こんな時、ほとんど役に立ちません。素手で、裸で彼らの前に立つのです。殴られても、蹴られても、無防備のまま、彼らの前に立つ。立ち続ける。
昔、そんな風にして私は生徒の前に立っていました。
なんの理屈もありません。人はそうやって、重い障がいのある人の前に立つのだと思います。立つことで人になることができた。そんな風に、今、思います。
すさまじい格闘の日々であっても、その、ちょっとした隙間に、相手との人としての出会いがあります。ちょっと目が合ってしまったり、思わず笑ってしまったり、手を握ってしまったり…。その出会いが、相手との関係を支えてくれます。
映画「道草」の予告編を見ても、そういうものを感じます。
相模原障害者殺傷事件の犯人は、そんな風に重い障害を持った人の前に立っていたのか、という疑問。いや、犯人は、というより、津久井やまゆり園という施設が、そういう姿勢だったか、ということです。
映画は重い障がいのある人とおつきあいすることの深い意味を私たちに問いかけているようです。
彼らとおつきあいすることで、人はまた、人に近づいていく、と。