共生社会実現フォーラムに行ってきました。集まりの名前がすごいわりには、共生社会につながる何か新しいことがここで生まれたわけでもなく、費用対効果を考えると、どうなんだろうかと思ってしまう集まりでした。会場費にしても、事前のチラシの費用にしても、事業に関わる人件費にしても、すごいお金がかかっていると思いますが、それに見合うものが何か生まれたのかを考えると、なんだかなぁ、という気がしました。
かけた費用の分は取り返す、というか、共生社会に向けて、新しいものを創り出す、といった熱い思いが必要な気がします。
私が参加したパネルディスカッションでも、「あなたが思う共生社会はどんなものですか」という質問の回答は6分と決められていて、ディスカッションを通して、何か新しいものを見つける、といったことよりも、とにかくスケジュール通り終わらせることが優先されるような進行で、後半、それが若干崩れた部分もありましたが、議論が熱くなる、といったようなことはないまま、なんだか中途半端に終わった気がします。来た人たちに申し訳なかったな,という思いでいます。
パネラーへの事前の質問に「共生社会に向けてどんな行動をしますか?」という質問があって、共生社会は遠い未来にあるような、そんなイメージにすごく違和感を感じました。パネルディスカッションの進行役もそんなイメージで語り、同じ壇上にいて、すごく居心地の悪い思いをしました。
(舞台で子どもが二人寝っ転がっていますが、こういうのもアリなのがぷかぷかの舞台です。こういう自由な雰囲気こそが、ぷかぷかが創り出した大事な価値だと思っています。)
ぷかぷかは、障がいのある人たちと一緒に生きる小さな社会がすでに実現しています。ともに生きる社会、共生社会が、規模は小さいですが、実際にできているのです。上の写真のように、地域の小さな子どももいっしょに舞台に立ったりしているのですから。
その実現にすごく苦労したかというと、ただ彼らと一緒に生きていきたい、と思っただけで、「苦労」と言えるものはほとんどありませんでした。実現に向けて何か勇ましい行動したわけでもなく、ただ彼らと楽しい一日を作り続けてきただけです。
ポイントは彼らとフラットに向き合う、ということです。個々の現場で、彼らとそういう向き合い方ができれば、すぐにでも「ともに生きる社会」は実現できる,というか、「ともに生きる」というのは、まさにそんなふうにフラットに向き合う,フェアにつきあうことだと思います。
共生社会に向けて、何か行動しなければ,それが実現できない、といったことではなく、彼らと「フラットに向き合う」、そういう関係を作れるかどうかだけだと思います。
なんだかんだいいながらも、私たちは障がいのある人たちを自分たちよりも低く見ています。自分たちの方が優れている、いろいろできる、と思い込んでします。その思い込みが、共生社会を遠くにやっているように思います。
ぷかぷかの近くの女子大でぷかぷかさんと一緒にワークショップをやったときの学生さんの感想には
「障がいのない自分よりも、心や考えが豊かで、見習いたいものがたくさんありました。」
「こんなに素直に生きてていいんだ、と気づくことができました。」
「自分にはすぐにできないこと、恥ずかしがってしまうようなことを、自由に、積極的に、かざらない、そのままの姿で表現し、生きている姿は素敵で、見習いたいです。」
という言葉がありました。
彼らの方が自分よりも豊かなものを持っている、という気づき、彼らの生き方を見て、自分がいかに不自由に生きているかの気づき、彼らの生きる姿が「素敵」だ、という気づき。
こういう気づきが、自分たちの方が彼らよりも優れている、という思い込みから自由にしてくれます。
「またお会いできる日を楽しみにしています」
という言葉が自然に出てくるような関係がワークショップを通してできたのです。
大事なことは、こういう気づきの機会を作ること、気づくことでできる新しい関係を持続させること、その関係を更に発展させること、その関係の中から新しいものを創り出すことだと思います。今回で言えば、この関係,ぷかぷかさん達との素敵な出会いを元に1年くらいかけて,子ども達に届ける絵本を作ろうと思っています。障がいのある人たちとは一緒に生きていった方がいいよ、というメッセージを絵本の形で子ども達に届けるのです。絵本を作るのは学生さん、ぷかぷかさん、スタッフ、印刷屋さんのコラボチームです。このコラボチームこそが「ともに生きる」小さな社会です。
共生社会は、遠くにあって、何か行動しないと実現できないものではなく、こうやって彼らとフラットな関係さえできれば、簡単に実現できるのだと思います。