川崎の和希君がふつうの小学校でみんなと一緒に勉強したいという希望に対し、市教委、県教委が特別支援学校へ行くように指導し、それはおかしいじゃないかと裁判になっています。神奈川県は市教委、県教委の判断は妥当であるとしたことについて、「ともに生きる社会かながわ憲章」まで制定した神奈川県が、障がいのある人たちの社会参加の壁になるのはおかしいのではないか、と質問したところ、神奈川県教委から、およそ誠意のない回答がありました。その回答をブログにアップしたのですが、
下記のような書き込みがありました。
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こう言う人たちは「ともに生きる」を体験したことがないから本当のインクルージョンが何なのかわからないんでしょうね。
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全くその通りだと思います。ともに生きることのぬくもりのようなものを、経験したことがないのだと思います。
先日いただいた県からの回答には、人の心に届く言葉が全くありませんでした。小むつかしい言葉が並んでいるだけで、和希君のお母さんが裁判で述べた言葉に比べると、中身のない空疎な言葉です。回答を書いた人は本気で書いたとおりのことを思っているのかと思いました。
「ともに生きる社会かながわ憲章」も、相模原障害者殺傷事件を受けて作られたもので、それなりの意味はあると思いますが、丁寧に読んでみると、事件を受け、どうして「ともに生きる社会」なのか、といった一番大事な部分が書かれていません。
いいことがたくさん書いてあるのですが、どこか言葉が上滑りしている感じです。「ともに生きる」ことのリアリティが感じられないのです。多分そういう経験のない人が書いたのだと思います。だから、どうしてともに生きる社会なのか、がはっきりしないのです。
聞こえのいい言葉だけ並べても、ともに生きる社会なんて実現できません。「ともに生きる社会」に向けて、みんなの背中を押すような力強い物語が必要なのだと思います。
12月8日(土)には神奈川県主催の「共生社会実現フォーラム」があるのですが、「共生社会実現」だなんて、言葉ばかりやたら勇ましくて、なんだかなぁ、という感じです。こんなこと言って実現できなかったら、どうするのでしょう。言葉だけならやめた方がいいです。信用されなくなる、というよりも、共生社会ってそんなものだとみんな思ってしまうことが残念です。
「ともに生きる社会」を作っていくことに異論はありません。でもそれを言うならまず自分自身が身近なところにいる障がいのある人たちと丁寧におつきあいすることが大事な気がします。そしてともに生きることのよさを実感する。そこからが本当のスタートだと思います。
昨日ぷかぷかさんとすごろくワークショップをやった学生さんの感想にこんなのがありました。
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ぷかぷかさんと一緒にすごろくをしましたが、私たちが抵抗してしまうようなことも自然体で堂々とやるぷかぷかさんの姿に、むしろ私の方が恥ずかしがって出来ないなんて損しているなと思うと共に、自由に遊ぶぷかぷかさんの楽しそうな姿に癒されたり、緊張をとかされたり・・・自然と私まで楽しく遊んでしまいました。まだぷかぷかさんと関わるようになって時間は短いですが、ファンになりつつある自分がいて面白く思っています。
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県の回答の100倍くらいいい文章ですね。
ぷかぷかはこの創英の学生さん達と、何か面白いことを一緒にはじめようかなと思っています。ここから「ともに生きる社会」の新しい物語が始まります。「共生社会実現」なんて力まなくても、その気になれば、「ともに生きる社会」はどこにでも簡単にできるのです。