【知的障がいのカップル挙式 地域の祭りで「村人前式」】について書いたブログ
をシェアした方が、自分のFacebookにこんなことを書いていました。
●●●
私が出産して、娘がダウン症であると告知を受けた時、
最初にした質問は「先生、娘は将来、一人の女性として幸せを感じる事はできるのでしょうか…」だった。
恋をして、その先にどんな選択肢があるのか、考えると辛くなる時もある。
でも、この丹波の村のカップルの記事を読み、辛いとか言ってる場合ではないな!と勇気と希望がわいちゃった✨✨
娘の日和は、親の心配はよそに、両手に余るほど好きな人がいるみたいです☺️💓ウフッ。
●●●
私も昔、養護学校の教員に成り立ての頃、子ども達の将来についてはこのお母さんと同じような思いでいました。でも毎日子ども達と楽しい毎日を過ごしているうちに、私たちよりも子ども達の方がはるかに自由で、素敵な人生を生きていることがだんだん見えてきました。私たちの月並みな人生観では語りきれないような人生です。
10分おきにお漏らしし、そのたびにパンツを脱ぎ捨て、社長のようにふんぞり返って歩き回っていたすっぽんぽんのフリチン少年には、何が幸せな人生かについて、身をもって教えられました。
フリチン少年は、天気のいい日は中庭の芝生の上で大の字になって寝ていました。もちろんすっぽんぽんのフリチン状態です。
「はずかしいからやめなさい」
なんて先生みたいなことを(ま、一応先生やってましたから)毎日言い続けていました。そんなこといわれたくらいでやめるフリチン少年ではありませんでした。
さんさんと降り注ぐおひさまの光の中でにこにこと幸せいっぱいの顔をして大の字になって寝っ転がっていました。私はといえば、すぐそばで陰気な顔をしてグジュグジュと文句ばかり言っています。
こういうことを毎日繰り返していると、彼の幸せいっぱいに顔がだんだんまぶしくなってきて
「彼の方がいい人生生きてるよな」
って思うようになってきたのです。どう見ても彼の方が私の何倍もいい時間過ごしているのです。
「幸せそうな彼のそばで、一体俺は何をやってるんだ」
って思いましたね。
「負けた!」
って思いました。人生観の負けです。何かができるできない、ということと、いい人生を生きるかどうかは、また別のことである、という当たり前のことを私はフリチン君に教わったのです。
養護学校では、こういったことがたくさんありました。そういった経験の先に、自分の人生観で、彼らの人生を判断できない、と思うようになりました。
お母さんの悩みは自分の人生観で子どもの人生を判断していることにあります。子どもはそんなことお構いなく、自分の人生をしっかり生きています。
お母さんの文章に
「両手に余るほど好きな人がいるみたいです」
とあったので、
「両手に余るほど好きな人がいるなんて、素敵じゃないですか。私たちよりはるかにいい人生生きていますね。そういう視点が私たちの側に必要な気がしますよ。一緒に生きるって、そういうことだと思います。」
と書き込みました。
「本当に娘は幸せそうです☺️💓
よく笑い、よく食べ、よく歌い、好きな人には好きとストレートに伝え、失敗を恐れないと言う…親の私も羨ましく感じます☺️ 」
「人生見習うべきですね。よ〜く考えると、彼らとの関係って、案外こういうものじゃないかと思いますよ。」
彼らのこと、上から目線で見ていると、人生ソン!する気がします。