重い障がいがあっても普通学級の中で学びたいという子どもを無理矢理特別支援学校へ入れようとする川崎市と神奈川県を相手に、「それはおかしい」と子どもと両親が訴訟を起こしました。その第1回口頭弁論。
市と県は特別支援学校が「最良の学び場」と主張しているようですが、下の図のインテグレーションの所を見るとわかるように、障がいのある人たちと健常者が別のカテゴリーとしてきっちりと分けられた状態が、どうして最良の学び場なのでしょう。
やはりこの境界を取っ払い、障がいのある子どももない子どももごちゃ混ぜにすることで、いろんな学びが生まれ、豊かさが生まれる、と両親は具体的な例を挙げて明確に語っています。とても説得力があります。
養護学校では同世代とのお友達との交流がなく、和希から幼稚園での表情が失われていた感じでしたが、地域の小学校に出向いて交流が始まると、そこで同世代の子ども達と一緒にいるときは、本当に豊かな表情をしていました…
地元の小学校の交流では、お互い初対面だったにもかかわらず、運動会の練習の玉入れでは、何度も玉を拾って和希に持たせてくれたり、国語の音読では和希の声を聞き取ろうとしてくれたりしました…
お楽しみ会では、和希が笑っていることに一緒に喜んでくれたり、和希が教室に入って行くと「来た来た」といって迎えてくれました。そして終わりには「今度はいつ来るの?また来てね」といって、同じ1年生として受け入れてくれました…
交流の時間は短いので、和希も「え?もう帰るの?」「どうして?」「もっとみんなと一緒にいたい」という気持ちでいっぱいでした…
幼稚園で、ある子どもが和希の呼吸器のホースをさわろうとすると、他の子が「それはさわっちゃいけないんだよ」と注意をしてくれました…
これが障がいのある子どもが普通学級で学ぶことで生まれる子ども達の学びであり、豊かさです。こういう経験をした子ども達が大きくなったときの社会を想像してみて下さい。今よりも豊かな社会が見えてきます。
それを教育委員会は「特別支援学校」がいい、とせっかくの共生社会への試みをつぶしにかかっているのです。実現するはずの豊かさを思えば、これは大きな社会的な損失です。
教育委員会の人たちは、障がいのある子ども達としっかりおつきあいした経験がないのではないかと思います。経験がないから、彼らとのおつきあいから得られるいろんな学び、豊かさが想像できないのだと思います。
神奈川県は相模原障害者殺傷事件を受けて「共生社会」を推進させると「共生社会推進課」まで作っています。同じ県の組織でありながら、一方はせっかくできかけている小さな「共生社会」をつぶそうとし、一方は「共生社会」を推進しようとしています。
「ともに生きる社会かながわ憲章」には
【私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します】
と書いてあります。普通学級で学びたい、というのは、障がい者の社会への参加です。教育委員会のやっていることは、それを妨げることです。かながわ憲章には、そういったことを排除する、とあります。教育委員会のやっていることは、憲章にしたがって排除すべきです。
こんなことをブログで書いても、何の効果もないので、神奈川県のホームページにある「私の提案」で聞いてみようと思います。教育委員会がやっていることを、どうして排除しないのか、って。