昨日特別支援教育で学ぶ障がい児とぷかぷかさんがどうしてちがうのか、といったことを少し書きましたが、その続きです。
ぷかぷかさんの中には時計が読めない方がいます。ですからお昼休みがいつ終わるのか、よくわからないようです。でも、そのことですごく困っているわけでもなく、その人なりにうまくやっています。時計が読めなくても、私たちが思うほど困っていないのです。ひょっとしたら時計がない時代の時間感覚で生きているのかも知れません。そこには私たちがいつも思う
「早くしなさい」
という感覚がないのだろうと思います。いろんなところで時間に追われている私たちよりも、豊かな時間を過ごしているのではないかと思います。
時計は読めないよりは読めた方がいいとは思います。「発達障害」のために時計が読めない人に、読み方を教えるのが特別支援教育だろうと思います。そのためにものすごくいろんな工夫がされています。
時計が読めるようになれば、その子の世界が広がります。それはすごくいいことだと私たちは思います。でも、その子にとって、世界が広がることが本当にいいことなのかどうか、という一番大事な問いは、問われないままです。
時計の読めないぷかぷかさんが、読めなくてもちっとも困ってなくて、楽しい人生をおくっていることを考えれば、私たちが思う、これができた方がいい、という価値観は本当に絶対的なものなのかどうか、という疑問が出てきます。
友人の花岡千恵さんは昔熱心な「療育ママ」だったそうです。療育にものすごいお金をつぎ込み、hanaちゃんにいろんなことができるふつうの子どもになって欲しいとすごくがんばったそうです。でもお母さんが思うほど、hanaちゃんはなかなか変わりません。お互いの関係がすごくしんどくなったそうです。
あるとき、療育が目指していることを、hanaちゃん自身は望んでいるのだろうか、という根源的な問いにぶつかったそうです。たとえば一人でごはんが食べられるようになることをhanaちゃん自身が望んでいるのか、という問いです。
一人でごはんが食べられるようになることを望んでいるのはお母さんだけで、hanaちゃん自身はちっともそんなことを望んでいないことにあるとき気がついたといいます。そして「療育ママ」をそのときやめたそうです。
nahaちゃんとの関係がものすごく楽になり、hanaちゃんのすべてを受け入れられるようになったといいます。
特別支援教育で学ぶ障がい児とぷかぷかさんがどうしてちがうのか、の議論は、なんだかものすごく深い議論になりそうです。