先日ワークショップに参加した高校生のタイガくんは小学生の頃、吃音でいじめられたそうです。中学1年生の時に書いた作文をお母さんが見せてくれました。
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「そのしゃべり方、いらいらするからやめてくれる?」
小学校3年生の時、突然そういわれて、吃音のある僕は何も言い返すことができなかった……。僕の場合は、最初の語句がつっかえたり、「…っ、…っ」と言葉が出てこなくなったりしてしまう…。どもると、笑われたり、まねをされたり、「どもり星人」とからかわれたりした。そんな時、僕は一緒にふざけて笑っていたけれど、本当は体の中の水分が全部涙になってしまうような気がしていた。自分の伝えたいことがうまく伝えられないもどかしさ…。心の中は劣等感の塊で、僕は何度も自分が嫌いになった。
そんな僕が吃音と少しずつ向き合うことができるようになった。そのひとつはA君の存在だ。5年生になって、僕は特別支援級のA君と仲良くなった。ある時、A君と話をしていると、言葉が詰まって出てこなくなった。出そうとすればするほど、顔はゆがみ、肩に力が入る。その時A君は
「はいー。深呼吸100万回ー。落ち着いて。落ち着いて。」
と、僕の背中をさすってくれた。今まで笑われてばかりいた僕はびっくりした。そして自分のことをわかってもらえたことに、心が喜びでいっぱいになった。そしてA君は、自分は大きな音が苦手であることを話してくれ、「お互い、いろいろあるけれど、がんばろう!」と励ましてくれたのだ。A君の優しくて力強い手のひらのぬくもりが伝わった。
ふたつめは「言友会」のみなさんとの出会いだ。言友会は、吃音の人たちが集まっていろいろな思いを語り合うセルフヘルプグループ…
交流会で一番驚いたのは、吃音で言葉がつまっても、話すことをやめないで、誠実に最後まできちんと話していることだ。決して流ちょうとは言えないが、優しく相手に考えや思いを伝えている。ただ慰め合うだけの会ではなく、自分としっかり向き合って努力しているんだなと感動した。それに比べて、僕はどもりそうになると、話すのを途中でやめてしまうことが多かった…。「どもるのが悪い」と吃音のせいにしてきたが、本当は自分のせいだったのだと気づかされた。
この春、僕は中学生になった…。新しいクラス、新しい友だちに今まで伝えられずにいた自分の素直な気持ちを伝えてみた。
「なぜこんな話し方になるのかよくわからないんだけれど、吃音だから、こんなふうにどもっちゃうんだ。でも、みんなわかって欲しい。笑わないで欲しい。」
と。友だちは「そっか…」といって黙って聞いてくれた。「わかる、わかる、しんどいよね」と共感してくれる友だちもいて、僕は自分の気持ちを伝えてよかったと思った。自分の思いを受け止めてくれる友だちがいる。まるでA君が隣にいて、背中をさすってくれるように僕の体温があたたかくなった…
人は人によって傷つけられてしまうけれど、一方で、人によって救われることもある。「大丈夫だよ」「そのままでいいんだよ」とたった一言、いってもらうだけで気持ちが楽になり、明日もがんばろうと勇気が湧いてくる。
僕は、これから少しずつ大人になっていくけれど、吃音への理解がもっと深まり、吃音のある人が吃音のままでも大丈夫な社会になったらいいと思う。将来僕は小学校の先生になって、自分のように悩んでいる子がいたら「大丈夫だよ」と抱きしめてあげたい。相手の心の痛みがわかる人になりたい。僕がA君にしてもらったように。
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人は傷つき、悩むことで、こんなにも成長するんだとあらためて思いました。中1とは思えないくらい深い言葉があちこちにあります。
最初にタイガ君を救ったのが支援級の子どもだった、というところも意味深いものがあります。普通級の子どもがタイガ君を傷つけ、支援級の子どもがそれを救った、というのは何を物語っているのでしょう。
こんなすばらしい作文を書いたタイガ君も今、高校1年生。今回のワークショップにはなんと栃木県からお母さんと一緒にやってきました。朝5時に起き、なんと新幹線で来たそうです。タイガ君はとてもおとなしい方で、ワークショップ楽しんでるかなってちょっと心配するほどでした。
一方地元から参加したツカサ君もすごくおとなしくて、大丈夫かなと思っていました。
ところがこの二人がワークショップの中で出会い、今度タイガ君がツカサ君の家に泊まりがけで遊びに来るそうです。お互い傷ついた者同士で、通じ合うものがあったのだと思います。これからがすごく楽しみです。