昨日の朝日新聞夕刊コラム「素粒子」
みずからに問う。障害者への思いはどう変わったのか。社会を見つめる。障害者は暮らしやすくなったのか。やまゆり園事件から2年目の朝に。
事件は、そういう機会を作ってくれたのかとも思います。それぞれが障がいのある人との関係について「みずからに問う」機会です。
私自身は事件を「みずからに問う」つもりで、つたないブログを書いて書いて書きまくりました。書いても書いても、怒りや悲しみややりきれなさが収まらなくて、気がついたら85本ものブログを書いていました。
犠牲になった人たちは
「何もしていない私たちが、どうして殺されなければならないの?」
と、やりきれない思いで死んでいったのだと思います。それは犯人だけではなく、この社会に生きる私たちみんなに向けられた重い問いだったと思います。
簡単に答えの出るものではありません。でも、この問いは、この社会において彼らと私たちの関係を端的に表すものとして、私たちに突きつけられた気がしています。
「生産性のないものは、じゃまだよ」
と、多くの人がなんとなく思っているこの社会。生産性がいつも評価の中心にある社会。障がいのある人たちが、生産性がない、と評価の最底辺に位置づけされる社会。そんな社会への重い問いだったと思います。
重い、しんどい問いです。
でも、理屈っぽい話ではなく。
「何もしていない私たちが、どうして殺されなければならないの?」
そう思う人を二度と出さないためにはどうしたらいいのか、というふうに考えてみれば、
〈 彼らとの楽しくてしょうがないようなステキな関係を作ることこそが大事 〉
であることが見えてきます。
お互い
「いい一日だったね」
って、笑顔で言いあえる関係。そういう関係をあちこちで作ること、それを広げていくこと、何よりも彼らとのそういう笑顔の一日を毎日毎日積み上げること、それがすごく大事なことであることにあらためて気がつきました。
8月4日(土)のぷかぷか上映会では、相模原障害者殺傷事件をテーマにしながら、ぷかぷかさんとの握手会をやります。
「やわらかい手だね」「あたたかい手だね」
そこから始まる障がいのある人たちとのおつきあいを大事にしたいからです。
人は、やわらかい手の人、あたたかい手の人を殺したりなんかしません。そういうことを感じないところで事件は起きたのだと思います。犯人は、重い障がいのある人たちも、私たちと同じように、やわらかい手をしていること、あたたかな手をしていることを知らなかったのではないかと思いました。
彼らと人としておつきあいすること。たったそれだけのことを私たちはやりきれてなかったのではないか。そんなことを思う事件2年目でした。