今朝の朝日新聞「1968 抵抗のうねり」は、いろいろ思うことの多い記事でした。
中でもアメリカに関する記事は秀逸でした。
「I AM A MAN(私は人間だ)」
今年4月4日アメリカテネシー州メンフィスで、そう書かれたプラカードを掲げ、大勢の市民が行進したそうです。
1968年、黒人清掃員二人は清掃車に巻き込まれて死にました。待遇改善や安全対策を求めてストライキが発生。
抗議する作業員に白人の市長が
「おい、BOY。何の用だ」
と怒鳴りました。それに対して一人の作業員が返した言葉がプラカードに書かれていた言葉。
「I AM A MAN(私は人間だ)」
なんてすばらしい言葉なんだと思いました。
彼が人間なら、白人の市長は自分が人間であることを忘れているのではないか。そのことを端的に突きつけた言葉だと思います。
白人の市長の、相手をとことん見下す目線は、障がいのある人たちのグループホーム建設に反対する人たちの目線とおんなじだと思いました。
「おまえ達はここに住むな」
などと、どうして平気で言えるのかと思います。相手が障がいのある人であれば、何言ってもいい、という感覚。
相手が黒人なら、なに言ってもいい、何やってもいい、という感覚と同じです。
そういった感覚の人間に、アーダコーダ理屈で反論するのではなく、ひとこと
「 I AM A MAN(私は人間だ)」
と言い返した作業員の言葉。なんて深い言葉なんだろうと思います。
障がいのある人たちを蔑む言葉が蔓延する社会にあって、私たちもまた
「 I AM A MAN(私は人間だ)」
に匹敵する言葉を持たないとだめな気がしました。
障がいのある彼らも、この時代を一緒に生きている人間、ということ。そのことを忘れてはいけないし、そのことを語る言葉をもっともっと持たねば、と思うのです。