すばらしい映像見つけました。障がいのある人が街を歩くと街の人たちが少しずつ変わっていく、ということがよくわかる映像です。
次郎くんは言葉がしゃべれません。でもどんどん街へ出て行きます。言葉がしゃべれなくても、いろんなところで人に話しかけ、うまい具合にコミュニケーションが生まれます。相手の人たちは最初は多分いろいろ戸惑ったのだろうと思います。それでも何度か次郎くんとおつきあいするうちに、次郎くんの言いたいことがだんだんわかってきます。そして今は次郎くんがいて当たり前の街になっているようです。これを《次郎は「次郎という仕事」をしている》と話すお母さんの発想がすばらしいと思いました。
《次郎は「次郎という仕事」をしている》という考え方は、ちょっと目からうろこでした。仕事というものについての今までにない新しい発想だと思いました。こんなふうに見ていくと、障がいのある人たちのする仕事の幅が、人の数だけ広がります。
たとえば毎日郵便局に行っているセノーさんは、「セノーさんという仕事」をしている、と考えると、セノーさんはただ入金の仕事だけでなく、「あああああ…」といいながら、郵便局のお姉さんたちや郵便局に来るお客さん、中でもインド人の人たちの心を癒やしている、という大事な仕事もしていることが見えてきます。何よりも「セノーさんという仕事」はセノーさんしかできないので、地域社会の中で、セノーさんはかけがえのない、とても大切な存在になります。
「ミズキさんという仕事」「タカノブさんという仕事」「ツジさんという仕事」等々を、それぞれがしている、と考えると、それぞれの仕事がその人しかできないオリジナルな仕事になり、今まで以上にかけがえのない、大切な存在になります。
体が動かなくて、寝たきりであっても、「○○さんという仕事」をしている、と考えると、仕事ができない人、という概念はなくなります。「何かができない」というのは、できないことをフォローするために、そばにいる人との新しい関係を生み出します。新しい関係は相手の人生を広げます。人を手助けすることでちょっといい気持ちになれます。そんなふうにその新しい関係が社会をよくする方向へ広がっていくとき、寝たきりの「○○さんという仕事」は、ただ寝てるだけで大きな仕事をしていることになります。
仕事の意味をこうやって今までと全く違う発想で考え直していくと、相模原障害者殺傷事件の植松被告のいう「障害者はいない方がいい」あるいは「不幸しか生まない」ではなく、「障がい者は社会にとってかけがえのない大切な存在」ということが見えてきます。
映像の最後の方で、「なんかもったいないんだけど、次郎を街の人に貸してあげるよ、ぐらいな感じですかね」というお母さんのこのいい方がすごくいい!と思いました。迷惑かけて申し訳ない、といった感覚のお母さんが多い中で、「もったいないけど、街の人に貸してあげるよ」なんて感覚で街に出しているのですから、もう座布団10枚でも足りないくらいです。次郎くんの存在価値をそれくらい認めているのだと思います。
次郎くんはお母さんの人生をグッと広げてくれたといいます。次郎くんのおかげで、幸せも価値観もいろいろ教えてくれたといいます。私は次郎に出会って本当によかったといいます。だから時々街の人たちに貸して、街の人たちにも同じように
次郎とおつきあいして「いい思いしてよ」「いい時間過ごしてよ」
って思ってるみたいでした。