ぷかぷか日記

生産することのむつかしい障がいのある人たちとどう向き合っていくのか

以前、「セノーさんは今日もせっせと」という記事を書きました。

pukapuka-pan.hatenablog.com

 それに対し、福祉事業所で働いている当事者の方から、こんなコメントが寄せられました。(原文のまま)

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 ブログを読んであなたの言いたい事も良くわかりますがぷかぷかて、就労継続Bですよね。私同じく就労継続Bを利用する知的障害者ななのですがうちの施設じゃそんなの通用しませんよ。就労継続Bの施設て、社会に適用するように育成するところではないですか?そんな甘いやり方であるのであれば就労継続Bであるしつようありません。就労継続Bで有りたければ少しやり方変えた方がいいのでは、。 

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 「うちの施設じゃそんなの通用しませんよ」とかいわれ、ま、そうだろうなとは思いました(元々セノーさんは作業所にいたのですが、仕事をしないからと、追い出されるようにしてぷかぷかに来ましたから)。

 でもね、「仕事をしないのは通用しない」というのは、今の社会にあってどういうことなのかをきちんと考えていかないと、社会全体がどんどん窮屈になる気がします。「うちの施設じゃそんなの通用しません」「社会に適用するように育成する」「そんな甘いやり方」といった言葉が行き交う行き交う世界を想像してみて下さい(直接的には当事者の言葉ですが、施設の雰囲気、つまりは施設の考え方をそのまま反映していると思います)。

 

 少し前の記事ですが、朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄の「障害者が狙われて」と題した熊谷晋一郎と最首悟さんの対談にこんな言葉がありました。(相模原障害者殺傷事件を考える対談です)

 《 競争に敗れれば次々に不要とされる社会構造の中で、生産能力が劣る人への手厳しさはどんどんエスカレートしている。障害がない人も、いつ自分が不要な存在になるのか、不安にさらされています。少ない椅子を奪い合う社会では、より不要とされる人に悪意や攻撃が向かいやすいのです。 》

 こういう社会状況の中で、「うちの施設じゃそんなの通用しませんよ」という発想が、どういう意味を持つのか、ということです。障がいのある人たちに一番近いところにいるはずの福祉施設が、こういう発想を持つことを、とても残念に思います。

 「セノーさんのように生産しない人を許すような論理は通用しませんよ」という発想は、相模原障害者殺傷事件の容疑者の発想に容易に結びつく気がします。

 

 障がいのある人たちだけでなく、認知症の方など、生産しない人たち、生産できない人たちはこれからどんどん増えていきます。そういう人たちと私たちはどう向き合っていくのか、どうやっていっしょにこの社会を生きていくのか、社会全体が問われています。これからの社会が、とてつもなく非人間的なものになるのか、それとも人間的なものになるのか、大変な問いを私たちは突きつけられていると思います。障がいのある人たちと日々向き合っている私たちこそが、生産しない人たち、生産できない人たちとどういう関係を作るのか、そこから何を生み出すのか、が厳しく問われています。

 生産することのむつかしい障がいのある人たちと、それでもいっしょに生きていった方がいいね、って思えるような関係を作ることができれば、今の社会にあってはひとつの希望になります。ほうっておくとほとんど働かないセノーさんのあり方を認め、セノーさんが安心していられる居場所をつくったぷかぷかのやり方は、息苦しい世の中にあって、ホッとするような希望を作り出したと思っています。

 ご意見お聞かせ下さい。

 

 

 

  

 

 

  

 

 

 

 

  

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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