昨日、しんごっちのお母さんがぷかぷかに来ました。表現の市場で小児ホスピスの募金箱を置いてもらえないか、という話でした。ほんとうはお母さんが持って来る予定でしたが、知り合いの小学生に脳腫瘍が見つかり、余命何ヶ月かを宣告され、子どもと両親の支援に入るため、表現の市場には来られない、それでもいいか、という話でした。もちろんいいですよ、とお答えしたのですが、余命何ヶ月かを宣告された小学生の話は辛いものがありました。
ほんの1年ほど前に悪性の脳腫瘍がわかり、それまで全くふつうの生活をしていた子どもが、だんだん調子が悪くなり、次第に歩けなくなり、言葉が出なくなり、食欲もなくなって、今とても厳しい状態のようです。
まわりの人たちが、自分抜きで自分の病気のことを話し合うのが嫌だと、本人も話し合いに加わることになり、自分の余命を告知されることになったと言います。
小学生が自分の余命の告知をどんな思いで聞いたんだろうと思うと、胸が痛みました。しんごっちのお母さんは子どものそばに行っても、話しかける言葉が見つからない、とほんとうに苦しそうでした。
でも、そんなふうに辛い思いをしている子どもにこそ向き合わねばならないと、しんごっちのお母さんは自分を奮い立たせているようでした。そんな思いにまでお母さんを駆り立てているのは、やはり亡くなったしんごっちの存在が大きいと思います。
しんごっちはたくさんの絵を描いていました。しんごっちの生きた証です。その生きた証があるから、今もしんごっちのことを楽しく思い出せる、だから今向き合っている子どもの生きた証も、何らかの形で残してあげたいとおっしゃっていました。ご両親は今はすごく大変だけれど、将来、きっと子どもの生きた証が両親を支えると思います、と自分の体験を交えながら話していました。
その人の生きた証は、その人が生きた意味をも語ります。
相模原障害者殺傷事件。犠牲になった方たちの生きた証が全く見えません。今朝の神奈川新聞では施設の閉鎖性についての記事がありました。こんなことが原因で犠牲になった方たちの生きた証が見えないのだとしたら、なんともやりきれません。
あの人はああだったよね、この人はこうだったよね、ってお互いが語り合えれば、それぞれの生きた証が見えてきます。そういったことができない雰囲気が、今、施設はあるのでしょう。なんともやりきれないです。