『そよ風のように街に出よう』という雑誌が、来年の夏、廃刊します。障がいのある人たちの声を発信し続けた雑誌です。
その雑誌の副編集長小林さんに久しぶりに会いに行ってきました。新大阪駅近くの、路地にあるなんともうらぶれたビルの部屋です。頭がくらくらするほどにたまった在庫の山に囲まれながらも、それほど悲観的でもなく、『そよ風」廃刊後も何らかの形で発信は続けますよ、と元気におっしゃっていました。
障がいのある人たちの社会的な問題を、重くも暗くもなく、今までにない明るい視点(?)で語ってきた希有な雑誌だと私は思っていますが、そんな雑誌でさえ廃刊に追い込まれる社会的状況なんだろうと思います。そういう中で相模原の事件が起こりました。社会がどういう方向に動いているかがよく見える事件だったと思います。
小林さんは今も月2回、電車、バスを乗り継いで1日かけて奈良の山奥まで梅谷さんの介護に通っているそうです。梅谷さんはそよ風の創刊号で取り上げた重度の行動障害を持った方です。
「昔は力尽くで梅谷さんがものを壊すのをやめさせましたが、今は体力的に負けてしまうので、いろいろ工夫して、なるべくお金がかからないような壊し方をしてもらうようにしています」と笑いながら小林さんはお話しされていました。にしても、36年間も小林さんを奈良の山奥まで突き動かしたのはなんなんだろうと思います。小林さん自身、その理由をうまく言葉で説明できないようでした。
梅谷さんとのおつきあいのきっかけは、お母さん一人の力ではもうやっていけない、助けて欲しい、というSOSの発信を受け止めたことから始まったといいます。そのおつきあいが36年も続いているのです。最初は梅谷さんを助けようと思って始まったおつきあいも、今はもう少し違う感じで続いているようです。その「もう少し違う感じ」がうまく言葉で説明できない、と小林さんはいいます。梅谷さんへの興味かなぁ、とも言ってましたが、どうもそれだけでは説明しきれない感じです。
梅谷さんは何をしでかすかわからないところがあって、いつも緊張感を伴ったおつきあいのようです。でも、その張り詰めたような時間は、日常にはない充実感もあって、その時間がすごくいい、ということをおっしゃってました。
昔「しのちゃん」という生徒とおつきあいしていた日々を思い出しました。しのちゃんはいつも突然暴力を振るいます。いきなりげんこつが顔面に飛んできたり、頭突きを食らったり、蹴りが入ったりで、みんな1メートル以内には近づかない、といった雰囲気でした。それでも私はなぜか「しのちゃん」が好きで好きでたまらなくて、殴られても蹴られても、しのちゃんのそばにいました。強烈な頭突きを食らって肋骨にひびが入り、息をするのも大変なときもありましたが、それでも「しのちゃん」のそばにいる時間は、ほかの何事にも代え難い、「いい時間」だったのです。
言葉で説明できなくても、人は人とつきあっていきます。それが人と人とが「出会う」ということなんだと思います。理由なんてない、ただおつきあいしたい、と思うだけです。それが「人」のいいところだと思います。
もうそれほど若くない小林さんが、今も1日かけて奈良の山奥まで梅谷さんの介護に通うのも、やっぱりどこかで梅谷さんと出会ってしまったのだろうと思います。その説明できないおつきあいのことを『そよ風』終刊号にはぜひ書いて欲しいと頼んできました。
『そよ風』は終わります。でも小林さんと梅谷さんとのおつきあいはまだまだ続きます。梅谷のさんとのおつきあいは、小林さんの生き方そのものです。障がいのある人たちとのおつきあいというのは、結局のところ、自分の生き方なんだろうと思います。
時代は少しずつ悪い方向へ向かっているようです。そんな中で、自分の生き方として障がいのある人たちとのおつきあいを続けている人がいる、ということは小さな希望であるような気がしています。そこからまた新しい何かを発信していくのではないかと思います。
★今、新幹線の中でこれを書いています。便利な世の中になったものですね。