先日、津久井やまゆり園の建て替えで住民説明会があった際、県の副支部長が
「建て替えは、屈しないという強いメッセージになる」と発言したことについて、
「屈しない」の意味を、県のホームページの「私の提案」コーナーから県に問い合わせました。
その回答が来ましたので紹介します。
県としましては、利用者の方々への支援に全力を尽くすとともに、今後、二度とこうしたことが起こらないように、事故について徹底的な検証を行い、再発防止策を講
じてまいります。
なお、津久井やまゆり園の再生に向けては、主に次の考え方により、大きな方向性
を「建替え」としています。
・ 施設のほぼ全体に、大量の血痕が付着するなどの甚大な被害が及んでおり、改修
だけでは、適切な支援を継続することが困難であると判断したこと。
・ 建替えを要望する家族会及びかながわ共同会の意向を反映できること。
・ 再生のシンボルとなる全く新しいイメージの施設を作り、神奈川から、この理不
尽な事件に屈しないという強いメッセージを発信していくべきであること。
お問い合わせいただいた住民説明会では、こうした考え方をご説明したものです。
一方で、神奈川新聞にこんな記事がありました。
津久井やまゆり園殺傷事件を受けて開かれた地域住民による集会を企画した方は
「私たちみんなの中に“内なる彼”が住んでいることに気がついた。私たちを含め、世間が、社会が、差別を先導してきたのではないか」
集会の参加者は
「人はみんな平等だというのは、正直、僕は建前だと思う。どうしても優劣がついてしまうのは生きものとして仕方がないこと。でも、建前でも貫くしかないと思う。建前であることを認めて、納得した上で、平等な社会にしていくしかないのかなと思う」
そして取材した記者は
「私たちはみな、程度の差こそあれ、容疑者的な部分を持っているのではないか。彼が生まれ育ち、思想を膨らませ、犯行に至った場所もまた、私たちが生きているのと同じ社会だ。」
と、書いていました。
一方は「私自身」が悩み、一方は自分はあくまで正義の側にいるように「屈しない」などと口走る。
「私自身」が悩んでいる人たちを前に「屈しない」などと言ったのであれば、とても恥ずかしいことだったと思います。
神奈川県の役人は事件に一体何を見たのでしょうか。
事件後にはこんなものが県のホームページに掲げられました。
ともに生きる社会かながわ憲章
~この悲しみを力に、ともに生きる社会を実現します~
平成28年7月26日、障害者支援施設である県立「津久井やまゆり園」において19人が死亡し、27人が負傷するという、大変痛ましい事件が発生しました。
この事件は、障がい者に対する偏見や差別的思考から引き起こされたと伝えられ、障がい者やそのご家族のみならず、多くの方々に、言いようもない衝撃と不安を与えました。
私たちは、これまでも「ともに生きる社会かながわ」の実現をめざしてきました。
そうした中でこのような事件が発生したことは、大きな悲しみであり、強い怒りを感じています。
このような事件が二度と繰り返されないよう、私たちはこの悲しみを力に、断固とした決意をもって、ともに生きる社会の実現をめざし、ここに「ともに生きる社会かながわ憲章」を定めます。
一 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします
一 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します
一 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します
一 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます
なんだか「よい子の作文」のような感じがしました。
「断固とした決意をもって」なんて威勢良く書いてありますから、その勢いで「屈しない」なんて言葉が出てきたのでしょうか。
「私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します」
と素晴らしいことが書いてあるので、瀬谷区で住民の反対運動でグループホームの計画が潰されてしまった事件についてどう考えるのか聞いたことがあります。
こんな回答が帰ってきました。
政令指定市である横浜市におけるグループホームの建設につきましては、横浜市がグループホームの指定の権限を持っており、県は指導できる立場にはありません。
やっぱりあれは「よい子の作文」なんだと思いました。
結局のところ、県に任せていては何も解決しないということです。
「彼が生まれ育ち、思想を膨らませ、犯行に至った場所もまた、私たちが生きているのと同じ社会だ。」というところから出発し、私たち自身が悩みぬくこと、そして障がいのある人たちとコツコツといい関係を作っていくしかないんだと思います。