NHKのパラリンピック報道で、
「パラリンピックの報道は障害者のイメージを変えますよねぇ」
なんてこと言ってましたが、確かに障害者もこんなすごいことができる(いろんなことができないというマイナスイメージを象徴する《障害者》という言葉を見事にひっくり返しています)という意味では、障害者のイメージは変わると思います。
でも、そういう意味で障害者のイメージが変わっても、障がいのある人たちの社会的生きにくさが変わるか、というと、多分変わりません。ハード面でのバリアフリーは進んでも、ソフト面でのバリアフリーはなかなか進まないからです。
できないことをできるようにがんばってがんばって、すごいことができるようになる人もいれば、できないことを全く気にしないで、がんばらない障がいのある人たちもたくさんいます。むしろこっちの方が多い気がします。
いつも話題にするセノーさんなんかはそのがんばらない人の代表です。
できることを極限まで追求する人たちのパラリンピックがあるなら、できないことをできるようにがんばらない人たちのパラリンピックがあっても面白いんじゃないかと思いました。そこでは、がんばらない人たちが作り出す、今までにない新しい価値で勝負します。新しい価値は、がんばらない人たちに寄り添う人たちが言葉や映像、その他で表現します。
新しい価値を評価することは、そのまま「できないことをできるようにがんばらない人たち」の評価につながります。評価することを超えたところで生きている彼らを評価するなんて、彼らから見れば全く意味のないことです。それでも今の社会にはない新しい価値を見いだすという意味で、そしてそのことで社会をより豊かにする、という意味で、私たちは目をこらして、必死になって評価することはものすごく意味があると思います。
「できないことをできるようにがんばらない人たち」の作り出す今までにない新しい価値で勝負するパラリンピック、考えただけでも楽しいと思います。いや、そういう新しい価値を掘り起こす作業が、今すごく必要なんじゃないかと思います。そういうことこそが相模原障害者殺傷事件を乗り越えるために必要だと思います。
たとえばセノーさんは「ああああ…」と言いながら、郵便局のお姉さんたちの心を耕しました。
これは彼にしかできない《新しい価値》の創造と言っていいと思います。
彼らが生み出しているそんな《新しい価値》をみんなで探そう。そしてその《新しい価値》で勝負するパラリンピックをやろうじゃないか、という提案です。