7月30日の朝日新聞朝刊に、相模原で起きた殺傷事件で犠牲者の名前を公表していないことについての記事がありました。
保護者の要望で名前を非公表としたというのですが、名前はその人の人生そのものであり、名前を公表しないことは、その人の人生そのものがなかったことにならないか、という気がします。
たとえ重い障がいがあっても、こんなすてきな人生、こんな豊かな人生を送ったんだよ、というメッセージは、こんな時こそ大事だと思います。
きちんと名前を書き、この人はこんなすばらしい人生をおくりました、と書き残すことは、亡くなられた方への最低限の「礼儀」であるようにも思うのです。
こんなことは考えたくないのですが、もしぷかぷかでこんな事件が起き、もし犠牲者が出たりしたら、悲しみに暮れながらも私は、犠牲になった方はこういう名前の方で、こんな人生を送ってたんですよ、という話を書きます。悲しくて、悔しくて、やりきれないから、ほんとうにもう毎日書きます。その人が生きた証を残してあげたいからです。障がいがあっても、こんなすてきな人生を、こんな豊かな人生を生きたんだよ、という確かな証です。
そしてそれをたくさんの人たちと共有することこそが、このような事件を防ぐ力になると思います。
「重度障害者は何もできない。生きる価値はない」なんて発言はとんでもないと思います。この記事で紹介されている写真の青年は、お父さんとお母さんの人生をしっかり支えてきました。すばらしい働きだと思います。こんな働きは誰にでもできることではなく、この青年しかできません。
彼が施設で生活することで、施設職員の雇用を生み出しています。食事を作るための食材の業者さんの仕事を生みだし、施設のメンテナンスをする業者さんの仕事を生みだします。つまり、彼が生活することで経済が回るのです。彼がいなければ、こういったことがゼロになります。その経済的な損失を考えると、彼が施設で生活することで生み出すものの大きさがわかります。
そういう働きを私たちがきちんと評価していくことが、今の社会風潮の中ではとても大事だと思います。
記事にそういう掘り下げがなかったことがとても残念です。