昨年のワークショップで、わがままな王様をどうやって懲らしめるかで、みんなでアイデアを出し合ったとき、どう問いかけても、なかなかいいアイデアが出て来ませんでした。終わったあとの反省会で、ピアニストのあみちゃんが
「彼らって、悪意というものがないんじゃないのかなぁ」
とぼそんとつぶやきました。悪意がないから、相手を懲らしめるとか、やっつける、という話に、どうけしかけても乗ってこなかった、というわけです。そういう発想自体がない、というか…
相手をやっつける、なんてことは誰しも考えることだとそれまで思っていましたから、そんなこと考えたこともない人もいる、という発見はとても大きいものでした。すばらしい人たちだと思いました。こういう人たちこそが、お互い住みやすい世の中、平和な世の中を作っていくんだと思いました。
「相手をやっつける」という発想のないすばらしい王様
一方で、少し前になりますが、安倍首相はインターネットの放送で「喧嘩が強くて、いつも自分を守ってくれている友達の麻生くんが、いきなり不良に殴りかかられた時には、一緒に反撃するのは当たり前ですよね」なんて言い、「安保法制」の必要性を説きました。
でも、「一緒に反撃するのは当たり前」という発想自体が間違っています。そんなふうに思わない人がたくさんいることを忘れているのではないでしょうか? 多くの人たちは争いを好まないのです。
更に怖いのは、この発想自体が際限のない反撃を生み出すことです。反撃すれば、さらなる反撃があり、更にそれに対して反撃し、というふうに喧嘩はどんどん広がっていきます。これが「安保法制」の本質だと思います。
ぷかぷか出身の王様が、もし総理大臣なら
「反撃するのは当たり前ですよね」
なんてことは絶対に言いません。相手をやっつけるなんて、発想自体がないのですから。こういう人こそ総理大臣になるべきです。
「相手をやっつけない」というのは、戦争放棄を宣言している憲法第9条と同じです。王様の発想は、ですから憲法9条の発想と同じであって、彼らといっしょに生きていくことは、そのまま平和を実現することにつながっていきます。
オペラを子どもたちと一緒に楽しめるような日々が続くことを願っています。子どもたちといっしょに元気が溢れる新しい朝がやってくるような日々が続くことを願っています。
でも、願うだけでは、そんな日々が続かない時代がやって来ます。今のアベ政治に対し、はっきりと《 NO 》を表明していかないと、本当に怖い時代がやって来ます。来てから、あああのとき、ああ言っておけばよかった、では手遅れです。
(高崎 明)
「じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい」の人たちがこんな宣言を出しています。京都大学の有志の方々です。
くにと くにの けんかを せんそうと いいます
せんそうは 「ぼくが ころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじゃない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじゃない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじゃない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじゃない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじゃない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じゃまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしは おおきなこえで 「やめて」 というんだ