一昨日『街角のパフォーマンス』のことを書きましたが、その目次の中に「教室が芝居小屋に変わった お客も役者もクッタクタ」という項目があります。学校の中に「芝居小屋」という、みんなが自由になれる空間を作った時の記録です。
文化祭で、普通はステージで芝居をやるところを、教室でお客さんも一緒になって芝居を作る空間を作ったのです。きっかけはフィリピンまで行ってやったワークショップでした。1週間くらい行っていたのですが、現地のPETAという芝居グループがやっていた子どものワークショップの発表会を見る機会がありました。スペイン占領時代の古い城壁の跡地で夜、その発表会はありました。芝居の中のモンスターと馬が登場するシーンで、そのモンスターと馬の雰囲気を観客が作り出すのです。モンスターの叫び声をみんなで出し、馬の蹄の音をみんなが靴を鳴らして出します。ただ芝居を見ているのではなく、その芝居の舞台を役者の子どもたちと一緒に作っている、ということがすごく新鮮で、言葉はわからないのに、楽しさだけは舞台の子どもたちと共有できた気がしました。現地のタガログ語をPETAのメンバーが英語に翻訳し、それを日本語に翻訳してもらうという手続きのため、何をやっているかを理解するのに時間がかかり、芝居のタイミングがいつもずれていましたが、それでも観客もいっしょに舞台を作っていく楽しさは十分伝わってきました。こんな舞台の作り方があったんだ、と、もう感動してしまいました。
これはもう絶対に学校でやろうと密かに決意。文化祭で「芝居小屋」という空間を作って、お客さんと役者で一緒になって芝居の舞台を作ったのでした。はじめてそんな場を作るので、うまくいくかどうか、本番まで全くわかりません。役者だけの稽古は事前にできますが、お客さんも入れての稽古は本番までできません。ですからこの一番大事な部分はぶっつけ本番になります。緊張した分、本当にこの芝居小屋は楽しい空間になりました。その時の記録が本には載っています。
これが思いのほかうまくいって、その次の年は「ちびくろサンボ」をやり、その次の年は「魔女たちの朝」をやりました。このときはスクールバスの運転手や添乗員の方も巻き込んでの熱気むんむんの芝居小屋になりました。
この芝居小屋については以前のぷかぷか日記に書いていますので、読んでみてください。
この芝居小屋が更に発展して、転勤先の学校では、体育館のフロアを使って全校生、保護者、教員みんなで芝居をやりました。体育館に集まったみんなが本当に自由になれた空間だったと思います。毎年毎年全校生を相手にしたワークショップ的芝居作りを10年続けました。毎年テーマ募集から始まって、そのテーマに沿った芝居を約1年かけて全校生が参加して作るのです。みんなが1年間、いっしょに芝居作りを楽しんだと言ってもいいでしょう。創立30周年の記念式典も「三ツ境ようこさんの30歳の誕生パーティ」というタイトルで体育館芝居小屋をやりました。神奈川県教育委員会から来た課長は「神奈川のケンさん」という三ツ境ようこさんのお父さん役、校長はようこさんの乳母役で割烹着で芝居に登場したのでした。(このときの話はおもしろすぎて、書き出すときりがないので、また別の機会に書きます。)
10年くらいたって元の学校に戻りましたが、驚いたことに、芝居小屋をやるような自由な雰囲気は全くなくなっていました。歴史は人間が自由になる方向へ動いていくものだと思っていましたが、学校は逆行していました。こんなに自由な子どもたちがいるのに、どうして学校はこんなに不自由なの?という思いでいました。(ま、そんな中でも最後の3年間は思いっきり自由に芝居を作っちゃいましたが…)
ぷかぷかに自由な雰囲気があるのは、障がいのある人たちといっしょに生きていこうという思いがあるからだと思います。そういう思いがあるから、ぷかぷかには彼らのおかげで誰もがホッとするような雰囲気が生まれます。ところが、彼らを「指導しよう」とか「支援しよう」という方向で彼らとの関係を作っていると、どうしても「こっち側」の論理で物事を考えることになり、その結果、管理的な空間ができてしまいます。ほかの福祉事業所の運営するパン屋に行ったお客さんが、「ぷかぷかに来るとなんだかホッとするわ」と言ったことがありますが、要するにそういうことです。
障がいのある人たちといっしょに生きていこうよ、という思いは、ですから、社会を、私たちを自由にしていきます。そうして、私たちが自由に生きられる社会につながっていくんだと思います。