四宮鉄男(映画監督)
養護学校の教師を定年退職して、知的な障碍があったり、自閉症だったり、そのほか様々なハンディキャップを持った人たちと一緒に「ぷかぷか」というパン屋さんをやっている高崎明さんから、ツンさんこと、塚谷陽一さんの新しい作品が送られてきた。ツンさんは、そこのメンバーの一人である。
ツンさんの作品のことは、この「映像赤兵衛」でも何回も紹介している。
・12.04,20、『塚谷陽一作品選』へのご招待
・12.08.11.『はたけ』ツンさんの新しい作品
・13,02.13.2013年2月 ツンさんの新しい作品
・13.03.13.ツンさんとの話し合い
今回送られてきたのは、『三周年』『絵』『線』の三つの作品。それぞれ18分、7分、2分の作品である。それぞれの、そっけないタイトルがいかにもツンさんの作品らしくておかしい。たのしい。おもしろい。
「ぷかぷか」は、いろいろな障碍を持った人たちに就労の機会を提供するための場所としてよりも、障碍を持った人たちが街の中で街の人たちと一緒に暮らす場所としてイメージされている。『三周年』は、そんなパン屋さんの「ぷかぷか」が誕生してから3年経って、その記念のイベントを撮影したものだった。
『絵』は、やはり「ぷかぷか」で催された絵画のワークショップを撮影したもの。『線』は映像を線というか、物の輪郭線で表現する特別なソフトを使って仕上げた作品らしい。そのテクニックの詳細は分からない。
高崎さんから送られてきたDVDには短い手紙が添えられていた。その手紙には、「ゆったりしたいい雰囲気の映画になっていますが、ゲストに招いたオペラ歌手や、元黒テントの役者の声が全く入ってなくて、ま、気の向くままに作っているので、しょうがないと言えばしょうがないのですが、結局、あのときのすばらしい歌も演技も塚谷さんの中に入ってなかったんだと思いました。」と書いてあったので、わたしは、フフフと笑った。
その通りの映画なのだ。
推察だが、多分、『線』は気まぐれとか遊び心とか、ちょっとしたノリで作られたのだろうか、『三周年』と『絵』は、高崎さんから今度こんなことをやるんだけど撮ってみない? なんて誘われて撮られたんじゃないだろうか。
そして、わたしにしても高崎さんにしても、それぞれに、それぞれ違ってはいるのだけれど、それぞれに「記録映画」というものへのイメージがある。そして、それは、それぞれに異なるのだが、共通の基盤がある。共通する世界がある。だから、高崎さんはいつも、これを撮ってみない? と誘っておいてはいつも裏切られているのだが、それがおもしろい。
わたしにしても高崎さんにしても、撮影したり編集したりしても、その事柄がどんなことだったのかが分かるように記録しておこうとか、或いは、その事柄がどんなことだったのかを人に分かるように伝えようという意識がある。それがベーシックな「記録映画」のイメージなのだ。
ツンさんには、そういう意識はない。ツンさんにはそもそも記録映画を撮ろうなんて意識がない。ツンさんにとっては、撮影したり編集したりするのは、自分の作品づくりや自分の表現でしかない。
ツンさんにとって、対象をどのように捉え、どのように表現しても、それはツンさんの勝手だ。表現の自由であり、自由な表現である。なにも、「表現の自由」なんて政治的な事柄やメッセージに限ってのことではない。自分の心の中にあるものを自由に吐き出すという表現の自由なのだ。
だから、オペラ歌手を撮ったのに音が無くても、役者を撮ったのに台詞が無くてもちっとも構うことではない。不思議でもない。考えるまでもなく、例えば、仮にオペラ歌手の存在を一枚のスチール写真に収めた場合には音はない。音は無くても、写真の中でオペラ歌手は存在し躍動することは出来る。役者の場合だって同じだ。
ツンさんの場合、「ぷかぷか」の「3周年」には関心があっても、オペラ歌手や役者には関心がなかった。いや、『三周年』の中ではそうしたゲストの姿があれこれ写っているので、関心がなかった訳ではない。ただし、わざわざ「3周年」のイベントに足を運んでくださってありがとうございます、なんて主催者側としてのもてなしや配慮がなかっただけである。きっとわたしや高崎さんだったら、そうしたもてなしや配慮から、一所懸命にオペラ歌手や役者にカメラを向けて、一所懸命に音を付けるのだろうなあ。多分。
作品や表現だから作り手の勝手である。自由である。ということは、逆に、その作品や表現を受け入れるかどうかは、見る側の勝手である。見る側の自由である。義理やもてなしや配慮から、拍手を送る必要は毛頭もない。見る人の心に沁みてくる時にだけ受け入れれば良い。見る人の心が揺すぶられた時だけ受け入れれば良い。
実際、『三周年』を最初に見た時、その時のわたしの体調や心のコンディションのせいもあるのだが、全然わたしのからだが受け付けなかった。心には全然受け入ってこなかった。18分くらいの作品なのだが、退屈した。わずらわしかった。早く終わらないかなあ、なんて感じていた。
3周年のイベントの行われるお店の前に集まって、イベントがあって、オペラ歌手の歌やジャズバンドだかブラスバンドの演奏があって、役者さんのパフォーマンスがあって紙芝居があって、イベントが終わってという、なんとはなしの流れはあるのだが、何がどのように行われているのかが分からないので退屈したのだ。見ていて、事柄が展開していかないのだ。変化したり発展したりしていかないのだ。集まって来ている人たちが、そこで演じられたり行われたりしていることをどう受け止めているのかもわからないので、おもしろくないのだ。
ただ、そこに集まっている人たちがいて、そこに、ただ時間が流れていく感じだった。だから、わたしは見ていられなかった。見ていてつらくなってきていた。
しかし、しばらく時間を置いて、2回、3回、4回と見ていくうちに、わたしの印象は変わってきた。
えっ、これが、あの時、最初に見た作品と同じものかと思ったりもした。実は、とても心地良い作品だった。心が和んでくる作品だった。そうか、これは「記録映画」ではなくて、ツンさんの世界を表現した作品なんだ、ということにわたしが気付いたからだった。
前にも書いたように、わたしや高崎さんは、そのイベントの当事者として、そのイベントと正面から向き合って撮ったり編集したりする。誰が、どんな人が集まって来てくれたの、誰がゲストで来てくれたの、そして何をやってくれたの。そして、それを見ていた人たちの反応はどうだったの、ということなどを気にしながら撮影し編集していく。
しかし、ツンさんは、そんなことはしない。ツンさんにとって、「3周年」のイベントは、自分が今生きている世界の向こう側にある世界なのだ。イベントに人が集まってきて、ゲストがパフォーマンスして、プログラムが進行していってという時間は、ツンさんの世界の外側にある時間だった。向こう側の世界を管理し規制している外側の時間なのだ。そんな時間の流れには、ツンさんは興味がなかった。ツンさんにとっては、今を生きている自分の世界の時間が大切だった。そして、その時間の流れの中で、今を生きているままにカメラを回し編集していくことが大切だった。それがツンさんの「生きる」だった。
だからツンさんの作品には、この作品に限らず、後ろからのショットが多い。『三周年』でも、手前に地面が大きくあって、その上部にイベントに参加している人たちの背中が写っているショットが印象的である。そうしたカットが何カットも出てくる。見ている人たちを正面から撮る時も、ひと塊の観衆、即ちマスとしての引きの絵で撮っていく。寄った絵でさえ、いわゆるアップショットではなく、マスで撮った引きの絵の一部分でしかない。『三周年』には、いわゆる「記録映画」で言うアップショットは存在しない。つまり、観客の中に分け入っていって、だれ?だれ? とか、どう?どう? という撮り方をしない。階段状になった観客席に座っているイベントの参加者たちもまた向こう側の世界なのだ。
だから観客席に座って見ている人たちを撮って、次のカットで、何を見ているの? とカメラを切り替えて演者たちのパフォーマンスをアップで見せたりもしない。ゲストのパフォーマーも、単に「3周年」のイベントに参加している人に過ぎなくて、何をやっているの? とその前に立ちはだかって演目の内容を見せたりはしない。今過ぎていく時間、ツンさんが今を生きている時間をたんたんと記録してたんたんと編集していくだけである。その意味では、ツンさんの作品はこれもまた、紛れもなく「記録映画」なのであろう。ただ、外側の世界に管理・規制されたり、外側の時間にコントロールされたりしていないだけなのである。
外側の世界に管理されたり、外側の時間に縛られたりしないだけに、ツンさんの作品の世界には評価が存在しない。誰が来たの? 何をやったの? という以外にも、そのイベントが、おもしろかった? たのしかった? もりあがった? とか、或いは、たいくつだった? つまらなかった? とかの評価が一切ない。ただそこに流れている時間が存在するだけだった。
そういうことが分かってくると、つまり、ツンさんが作品の中で過ごしている時間に寄り添いながら、ツンさんの作品を見る人もツンさんの作品の中の時間を生きていけば、とても気持ちがよく、とてもたのしく、とても元気になって、とてもおもしろい時間を過ごせる。
ツンさんの世界にある時間に潜り込んでツンさんの世界を見ていけば、ツンさんの視線を自然に辿ることができる。小さな女の子とお母さんに向けられる視線、乳母車を押すお母さんと小さな女の子に向けられる視線、風に揺れる街路樹に向けられる視線、通りの向こうの突き当たりの山腹で揺れる樹木に向けられる視線、自転車を止めて見ている女性に向けられる視線、周囲の団地の建物に向けられる視線、休業の締まっている店舗に向けられた視線、地面に写った陰に向けられる視線・・・ツンさんの向けた視線の存在が自然に感じられてくる。そして、その視線を通してツンさんの世界が広がっていく。つまり、外の世界や外の時間からの解放なのだ。
『三周年』の世界は、とてもゆったりした、とても豊かな、とても優しい、とても居心地の良い世界だった。それは、「ぷかぷか」そのものが体現している世界だった。そして「3周年のイベント」もその実現の一つの表出だった。それを、ツンさんの『三周年』は見事に捕らえ、表現していた。
それでも、わたしにとっても気になることがあった。
幾つものカットで、カット尻をぐしゃっと揺らしたり、ガクッと動かしたり、白味がカットカット間にごく短く、ほんの2~3コマ挟まれたりしている。いわゆる、カット尻が残っているという状態なのだ。意図的なのだろうか。
意図的だとして、どんな意図があるのだろうか。
ワンカット、ワンカットを際立たせたいのだろうか。ワンカット、ワンカットを目立たせたいのだろうか。カットからカットへの流れを切断したいのだろうか。わたしにはよく理解できていない。そういうテクニックは必要なのだろうか。もしかしてそれは、ツンさんの屈折の気分なのだろうか。
それともう一つ、それは単にわたしの好みの問題でもあるのだが。『三周年』では、全編に薄めのスローが掛けられていたり、或いは逆に、コマ抜きがされていたりする。(そのテクニックの詳細は分からないのだが。)確かにその映像的な効果はあるのだが、そしてバックに流れている音楽とマッチして、奇妙な時間の感覚が生まれてきているのだが。日常を流れている非日常的な時間を感じさせられるのだが。でも、そういうデジタルのテクニックを多用しなくても、ツンさんの時間と世界は充分に表現されているような気がするのだが。
ただし、これは、デジタルのことに知識が疎く、デジタルへの興味や関心や好奇心の薄い旧世代というか、生きた化石世代による発言だから、現代的に言うと、ツンさんのようにデジタルを駆使して効果を上げた方がいいのかも知れないが。これはもう好みの問題に過ぎないのだが、わたしには気になった。
ただ、デジタルテクニックそのもののような表現でも。『線』はおもしろかった。特別なソフトで、映像を輪郭線だけを残して、線の世界で表現していくのだが、日常の映像で捉えられて世界がたちまちにして別物に変貌していくのがおもしろかった。それでも、線の世界に変身しても、なお日常性を残している映像もあった。それはそれで、二重の意味でおもしろかった。日常の奥深さを感じさせてくれたからだ。自在なのだ。
でも、これは製作にそうとうの手間や時間を食うのかもしれない。今回の『線』は僅か1分半か2分程度の作品だった。
『絵』も、基本の感想は『三周年』と同じである。
デジタル効果の多用も、これはこれで、簡明で分かりやすくて納得できた。納得できると言うのは、「絵」だからそれをデジタル映像で光や色に変化させてしていくのは、無理のない発想のかも知れない。そういう意味で、「分かりやすい」と評したのだ。
『絵』では、わたしには、映像の質感が興味深かった。思い切りハイキーに処理して、具象の色のついた部分を色を濃く、重くして、白く飛んだところと、対比的に、対照的に構成していくところが実に巧みだった。そこから、リズムや流れが自然に湧き上がっていっていた。そこから世界が噴き上がっていっていた。
でも、こちらの『絵』でも、映像と映像の間に極く短く白味が挿入されているのが気になった。年寄りのわたしには眼がチカチカしてきて、不快感さえ湧き出してきていた。サブリミナル効果みたいで、刺激が強過ぎて不快に感じるのだ。これも生きた化石世代だからなのかもしれないが。若い人には刺激的で快適なのかもしれないが。
それに関連して、ワンカットワンカットが、狙いなのだろうが、短か過ぎて、わたしの感覚や体力では受け止めきれなかった。付いていけなかった。その上、カットが極端に短いので、サブリミナル効果がいっそう強調されてしまうから余計そう感じた。
まあ、カットは素材に過ぎないのだから、ワンカットワンカット自体にはあまり意味はない、とう考え方も、そういう映像処理も分からないことはない。でも、あそこまで切り刻まれると豊かさを失って、闇鍋みたいに処理されてしまって、言葉を変えると、映像自体がデジタル化されてしまって、無機的になって、勿体ない感じはした。写っているワンカットワンカットは相当におもしろいのに、豊かなのに、という思いである。
まあ、年代や世代の問題かもしれないが、あそこまで一方的に決めつけていかないほうが、世界は深まり、世界は広がっていくような気もするのですが。決め付け過ぎると、見る人の世界の可能性が枠に嵌められ、狭まっていくような気がして仕方がないのですが。
そこのところは置いておいて、『絵』では、絵のワークショップの世界がおもしろく展開され、奇妙に展開していく。そこがおもしろかった。絵を描く、表現するという以上に、わたし的には参加した人たちと水道との関わりが、とてもおもしろかった。参加者と水道の関わりが執拗に様々なパターンで繰り返して見せられていく。そういう具合に、奇妙に展開していく世界が、見る側の勝手な、自由な世界を生み出していくのだろうと思う。そこがおもしろい。
そういう自由な刺激を与えられないような作品は詰まらない。外側の世界を描いた「記録映画」はおうおうそうなりがちだ。内側の世界を描いた「記録映画」のおもしろさだと思う。
2013年7月30日 しのみや てつお