四宮鉄男(映画監督)
養護学校の教師を定年退職してパン屋さんになった高崎さんから、ツンさんこと、塚谷陽人さんの新しい作品が送られてきた。高崎さんは、知的な障碍があったり、自閉症だったり、そのほか様々なハンディキャップを持った人たちが現実の社会の中で暮らしていける場を作っていきたいと、横浜・中山にある大きな団地の中の商店で「ぷかぷか」というパン屋さんとカフェを営んでいる。ツンさんは、そのメンバーの一人。★★
きっかけがあって、初めてビデオカメラを手にして、「ぷかぷか」の運動会をビデオに撮って、それを手持ちのパソコンの編集ソフトで作品に仕上げて、音楽も着けて。この編集技術が素晴らしくて、また、そこに着けられている音楽が素晴らしいのだが、うん、ピタリと嵌っているのだ。なにしろ、長い長いひきこもりの時間に散々、たくさんの映画を見たりたくさんの音楽を聞いてきたりしたらしい。その蓄積が、ツンさんの作品にはテンコ盛りになっていた。一瞬、一瞬が、生き生きととらえられた、躍動感に溢れたとても楽しい運動会の映画だった。
ツンさん自身も、ビデオによる映画づくりが気に入ったらしい。
その後、パン屋さんのパン作りや、カフェの仕事ぶりや食事会や、それに瀬谷区役所での出張販売の様子など、いくつもの作品が作られて、今年の5月、東京・江戸川での「メイシネマ映画祭」では、『塚谷陽一作品選』として上映してもらい、多くの人に見てもらった。そして、大好評だった。
なにしろ「メイシネマ映画祭」と言えば、錚々たる記録映画監督の作品が、そして、選りすぐりの記録映画が上映されるのだが、堂々それらの映画に負けない印象だった。記録映画を生業にしているわたしの友人は、何かを見せつけてやろうという見え見えの意図が無いのが素晴らしいと絶賛していた。
そして、つい2週間ほど前、高崎さんからツンさんの新作『はたけ』が送られてきた。「はたけ」というのはツンさんの父親がもう40年もやっていらしたブルーベリー農園のことらしい。そこへ、この6月だか7月に、「ぷかぷか」のメンバーたちが草むしりに出掛けて行った時の映像なのだ。
DVDの円盤には『はたけ』という題名が書かれているのに、モニターに映像を映し出すと『草むしり』というタイトルが付けられていたのがおかしかった。いや、この「おかしい」というのは、「へんだ」とか「まちがい」というのではなく、「おもしろい」とか「たのしい」という意味での「おかしい」だった。
きっと、高崎さんなんかは象徴的な意味を込めて、或いは、ある種の思いを込めて『はたけ』とされたのだろうが、ツンさんにとっては飽くまでも即物的に、ズバリ! 「草むしり」だった。そこに冷徹なドキュメンタリストの目を感じた。いや、ここで言う「冷徹」というのは「冷たい」とか「血が通っていない」という意味ではない。そうではなくて、目の前にあるものや現実をきちんと厳正に見詰めるというか、リアリストの視線だった。
わたしにとっては農園での「草むしり」は作業であり、苦行である。でも、画面に映っているメンバーたちは楽しそうだ。表情が生き生きしている。実際、「ぷかぷか」では、ツンさんのお父さんの農園での草むしり作業はレクリエーションとして、或いは、エンターテイメントの行事として企画されたものだった。だから、参加しているみんなは愉しかった。
映画の冒頭が心地良かった。冒頭の選曲が快適だった。木々が流れ、人々が流れ、道がどんどん進んでいく。見ていてわたしは、すぐに映画の世界に引き込まれてしまった。どこにいくの? なんだろう? なにが描かれていくの? という疑問は無用だった。そこでは流れが重要だった、見る人はその流れに身を任せればよかった。
『はたけ』の映像は、メンバーたちが農園に向かうシーンから始まる。ここがすごくすてきだ。柔らかくて温かな雰囲気に包まれた映像が続く。見ていて心地よくなる。草むしりという作業や労働が、本当は人間としての生きるという暮らしの中で、実に愉しい行動なのだということを改めて教えてくれる。なのに、現実は、賃金のために、お金稼ぎのために働くので苦役に変わってしまう。その関係がくっきりと立ち上がってくる。
ただし、これが、農園のPR映画だったり、或いは、農園での作業の意義を訴えるようなドキュメンタリーだったりしたら、きっと農園での草むしり作業が克明に、或いは、延々と描写されてくるのだろう。すると、草むしりの作業はちっとも愉しくなくなってしまう。すると、労働の本質・イクオール・生きる楽しみという等式は成り立たなくなってくる。ツンさんのカメラは、いつものように、作業する人たちの外側から、作業する人たちをそっと眺め続けていく。その距離感がいい。当然、草むしり作業のアップショットなんてのは存在しない。手元のアップも、顔のアップもない。でも、作業している人たちはとても楽しそうなのだ。その気持ちが伝わってくる。
以前に聞いた話だと、ツンさんは無機的なものを撮るのが好きで、人を撮るのは苦手だったらしい。でも、この『はたけ』では、登場している人たち表情が瑞々しい。きっと、被写体となっている登場人物たち自身が素晴らしいのだろうが、それをきちんと映像として定着させているツンさんの腕前はたいしたものだ。
いや、実際、画面では、登場人物たちの表情はちらりちらりと断片的にしか見ることが出来ない。でも、そんな瞬間的な映像の背後の、その登場人物の日常の暮らしの様子を伺えるような気がするのだ。それは見ているわたしの錯覚に過ぎないのだが、少なくとも、その人たちの生きている暮らしの息吹が感じられてくるのだった。それが、生きる、或いは、生きているということだと感じさせられてくる。
それでも、無機物大好きなツンさんの面目躍如のシーンもいくつもある。例えば、農園の中に放置されているいくつかのアルミチェア。なにか、人との関わりを求めている椅子たちのよう
に見えてくる。でも、勿論、その椅子たちに座っている人の映像はない。ポツンと農園の中に放置されている椅子たちなのだ。何かを求めているものと空隙とが際立ってくる。それは、「ぷかぷか」で暮らしているメンバーたちの生きている現実そのものかもしれない。
例えば、草むしりの作業している人たちから長いゆっくりとしたパンをして、カメラは長い石垣たちに辿り着く。その石垣にどんな意味があるのか? と問われてもわたしには答えられない。でも、妙にわたしの胸を打つショットだった。ツンらしいカットだなあと感じた。その石垣がなんという言葉を発しているのか、わたしにはその言葉は聞き取れない。でも、何かの言葉を発しているようにわたしは感じる。
ツンさんの映画としては珍しく、「草を取ったら、こうしてここに置くんだよ。先に下に生えている草を取っておかなくちゃいけないんだよ」なんて、指導してくれる人の声がオンで聞こえてきたりする。ツンさんの表現の世界もどんどん進化し広がっていっているんだなあ、と強く感じさせられる場面だった。
農園の中の、主人公でも何でもない虫たちにも、視線が向けられていた。今回は、なかなかうまくは写ってはいなかったのだが、そういう方面にもツンさんの意識が向いてきているのだなあ、と感じられて楽しくなってきた。
ただ一つだけ。常識的な観点からの感想を述べるなら、後半部の、二度目の、もう一度の人々の歩きのシーン要らなかったかもしれない。時間の経過とか空間の展開とか、そういうシーンを入れたいなあと思うツンさんの気持ちも分かるような気がする。
でも、映画を見る人の立場からいくと、映画の場合は、一つの時間の流れの中で強制的に映像が提供されて見せられていく。観客は、必然、一つの時間の流れの中に縛られている。だから、映画の中の映像の構成は、一つの流れの中で出来るだけシンプルがいいと思うのだ。今の流れだと、また元に戻ってしまう気がして、見ていて少し混乱させられてくるのだった。ノーナレーションの映画だけに、余計にそんな気がしてくる。(もちろん、観客の中にある時間感覚を意図的に混乱させる表現手法も重要なのだけれど。)
以前に、映像は興味深いし面白いし、でも、格別に映像に関心を持ってはいない一般の人に見てもらうのには、やっぱり少し長すぎるのかなあ、なんて感想を送っていたら、今回は8分くらいに構成されていた。うん、これはこれで、やっぱりこのくらいの時間の方が、一般の人には抵抗感なく映画の世界に浸れて、ゆったりと見られていいのかなあ、なんて感じた。
日常の断片を切りとってきた、ノーナレーションの映画だけにそう思った。