ぷかぷか日記

詩を読んだ

 生徒たちと詩を読んだ。


 平和教育というほどではないが、学習発表会で舞台に上げる芝居の中に、沖縄戦のさなか、大砲が村を向き、夜が明けたら弾が発射されるという場面がある。弾が発射されたらどうなるか、と聞くと、たいていの生徒は村人たちが死んでしまう、という。それは全く正しいのだが、この「死んでしまう」という情景を、どれくらい私たちは想像しているだろうか、というところがずっと気になっていた。


 たとえば台本の中で、夜が明けたら弾が村に向かって飛んで行く事を知ったガジュマルの木の精たちが「まずいぞ」とか「ああ、困った」というのだが、生徒たちの口にする言葉はただ台本を追いかけてるだけで、思いが全く伝わってこない。村人たちが死ぬ事はわかっていても、そのことを具体的にイメージできないのだから、そこをいくら思いを込めて、とかいっても無理なのだ。


 そこで詩を読むことにした。内容的にはとても辛い詩だ。目をそむけたくなるような詩だ。それでもきっちりとこの詩を読んで欲しいと思った。読むことで人が死ぬってどういうことなのか、具体的にイメージして欲しかった。

『仮繃帯所にて』

あなたたち

泣いても涙のでどころのない

わめいても言葉になる唇のない

もがこうにもつかむ手指の皮膚のない

あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液
とにまみれた四股

をばたつかせ

糸のように塞いだ眼をしろく光らせ

あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐
だけをとどめ

恥しいところさえはじることをできなく
させられたあなたたちが

ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを

たれがほんとうと思えよう

焼け爛れたヒロシマの

うす暗くゆらめく焔のなかから

あなたでなくなったあなたたちが

つぎつぎととび出し
這い出し

この草地にたどりついて

ちりちりのラカン頭を
苦悶の埃に埋める

何故こんな目に遭わねばならぬのか

なぜこんなめにあわねばならぬのか

何の為に

なんのために

そして
あなたたちは

すでに自分がどんなすがたで

にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている

あなたたちはおもっている

今朝がたまでの父を母を弟を妹を

(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)

そして眠り起きごはんをたべた家のことを

(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)
おもっている
おもっている

つぎつぎと動かなくなる同類のあいだに
はさまって
おもっている

かって娘だった
にんげんのむすめだった日を

                         (峠三吉

 教員がまず朗読した。みんなびっくりするくらい集中して聞いていた。授業中に彼らがこんなに集中したのはおそらく初めてだったといっていいくらい深い集中だった。そのあまりに深い集中にちょっと圧倒されて、次の言葉がなかなか出てこなかった。こっちも必死になって、次はみんなに朗読してもらうことを伝えた。


 言葉にていねいにふれて欲しかった。そのためには人の読むのを聞くだけではだめだと思う。自分で詩を声に出して読む、人前に立って読む、そうやってようやく言葉に少しふれることができるように思う。黙って目で追いかけるよりはるかに言葉にふれるということを実感できる。


 まず半分の生徒が前に出て、一人1行ずつ読んだ。模造紙に書かれた詩に目を向けながらも、気持ちは朗読を聞いてる人に向けるように言った。その人に向けて言葉を読む、言葉に含まれた気持ちを伝える。


 1回目はかなりぎくしゃくした読みだったが、2回目は言葉が書かれた情景が彼らの中に少しずつだがイメージできた読みだった。聞いてる生徒も2回目の方が断然よかったといっていた。読む方もイメージできた分、読みやすかったといっていた。


 グループを交代して、やはり2回繰り返して読んだ。次に二人で今度は長いセンテンスで読んだ。たまたまだが女性二人で読んだこともあって、詩の中の
 
   ああみんなさきほどまでは愛らしい

   女学生だったことを

   たれがほんとうと思えよう

   ……

   あなたでなくなったあなたたちが

   つぎつぎととび出し這い出し

   ……

   そしてあなたたちは

   すでに自分がどんなすがたで

   にんげんから遠いものにされはてて

   しまっているかを知らない

   ……

「あなた」という言葉がしみて、聞きながら涙が出そうになった。死んでいったのは多分同じ年ごろの女学生だった。そのこともあって彼らが読む時の「あなた」という言葉には力があった。自分と重なりあう「あなた」への思い。

 読み終わったあと、「毎日ごはんが食べられて自分は幸せだと思います」と言っていたのが印象的だった。(ふだんはちょっと頼りない人だが、こんな言葉がぽろっと出てくるなんてすごいじゃないか、と見直してしまった。)


 最後に一人で全部読んだ生徒がいた。この詩を人の前で全部読むのは相当なエネルギーがいる。それを手を上げ、自分で読みます、といったから本当に偉いと思う。この詩を読む辛さを全部一人で引き受けたのだ。しかも人前に立ち、声を出しながら…。僕なら途中で詰まってしまって、先へ進めなかったかもしれない。
言葉にならない感動があった。

 この生徒はガジュマルの木の精の役で一番最初に「まずいぞ」というセリフをいう。そのひとことを、どんなふうに言ってくれるか楽しみだ。
 
(この生徒は1学期、谷川俊太郎の「生きているということ」を読んだあと、宿泊で山に登った時、稜線の林の中を歩きながら、「あ、“木漏れ日がまぶしい”(詩の中の言葉)って、こういうことか」って言ったことがある。今度はどんなことを言ってくれるのかなぁ、と楽しみにしている。)
                           

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